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WEリーグが成功しなかったら大変なことになる……Jリーグ前史を知る名伯楽・菅野将晃がいま伝えたいプロの重み【サッカー、ときどきごはん】

 

アマチュア時代から地に足をつけて選手、指導者としての道を歩んできたからこそ、感じていることがある。プロとは何か? うまくいくクラブや選手とそうでないものの違いは何か? かつては監督としてJリーグのクラブを渡り歩き、現在は女子チームを率いる苦労人・菅野将晃にこれまでのキャリアを振り返ってもらった。

 

■本当の意味でプロにならないとすぐにダメになる

Jクラブの監督から女子チームの監督になってもう13年ですね。今は山梨県女子サッカーリーグ1部、FCふじざくら山梨の監督です。

2018年、ノジマステラ神奈川相模原を辞めるという発表があったその日に、今のFCふじざくら山梨から電話をもらったんです。話を聞いたらステラを立ち上げるときと状況は同じでしたね。選手を集めるところからスタートするクラブでした。

それでステラと同じイメージを描きながら来たんですけど、女子のレベルは年々上がっていてなかなか大変だと思ってたんです。でも選手ががんばってくれて、2019年はチャレンジリーグ入れ替え戦予選のグループAで1位になって、結局入れ替え戦では負けたものの手応えはつかめたんです。

ところが2020年はWEリーグができるということでなでしこリーグとの再編があり、参入決定戦がなかったんですよ。それで今年、またなでしこリーグ2部との入れ替え戦に出たんですけど、残念ながら1勝1敗で先に進めませんでした。

来年こそ、なでしこリーグ2部に上がって、そこから1部、そして将来的にはWEリーグ入りを狙いたいと思います。

今年WEリーグができたんですけど、これが成功しなかったら日本の女子サッカーは大変なことになると思いますよ。日本って一度やったことがダメになったら、たぶん2度は立ち上がらないでしょう。

アメリカだったら潰れちゃもう1回作ってというのを何回もやってるけど、日本はそういう風土とか思考をあんまり持ってないから、もうダメだねってなっちゃうんでね。

だからサッカー人としても、WEリーグの成功をとにかく願ってます。ただ自分が思うのは、クラブが本当にプロとしての要素をしっかり持ってやらないといけないということです。

Jクラブには男子のノウハウがあって、その育成部門の1つみたいに女子チームを持ってたところが多かったと思うんです。でもそのままだったら育成年代の延長になっちゃう。そうじゃなくてプロのクラブとしてのやり方とか考えをしっかり持たなかったらすぐダメになると思います。

私たちのクラブは「プレーイングワーカー」を目指そうという考え方を持っています。「プレーイングワーカー」っていうのは、サッカー以外で働けっていうことじゃなくて、社会人としても1人前になれるような活動をしていきなさい、考え方をしていきなさいっていうことです。

だからうちがプロになったら面白いと思いますよ。あらゆることを選手たちに教えるし、実践させる。外への発信とか、地域に対して何をするのかということを真剣に今から考えてやってるんで。

高卒の選手に「あなたはプロになりました。サッカーやりなさい。活躍しなさい。ダメだったらアウトです」って世界に身を置かせて、「その後社会人としてどうやっていくのかはあなたの自由ですよ」じゃなくて、どんなスキルを身につけなきゃいけないのかを、クラブがいろんな形でやっていかないといけないと思ってるんです。

僕自身もJリーグができる前に働いていた古河電工時代に、社会人としての大きな経験ができたと思いますね。「どうしてサッカーできるのか」「お金ってどうやって生まれるの」って分かってない選手って絶対ダメですよ。

それにクラブとして選手にはいろんなことを伝えてるんです。たとえばメンタルトレーニングの辻秀一先生に月最低1回は来ていただいてトレーニングを行っていただくんですけど、この歳になって新しいことを学ばせてもらってます。

女子サッカーを指導する魅力って、成長がすごく見られるところだと思うんです。成長とともに勝ちを得なきゃいけない。その育成と勝負の両方をできるんですよ。男子のトップチームを指揮すると、成長や育成の部分はあまり関係なくなるじゃないですか。

男子の世界でも勝負の世界の厳しさはあるし、そこでの楽しみもあるんだけども、女子の世界だとそういう勝負の世界とともに日常的には選手を成長させるためにはどうすればいいかという部分もある。その両方を味わえるのは指導者冥利というか、一番面白いところなんじゃないのかって思いますね。

 

■「やっぱりプロでやりたい」悩んだ末、31歳でプロになった結果……

僕は高校を卒業した1979年、古河電工に入社して最初は当時の日本サッカーリーグ1部でプレーしてました。会社で配属されたのは本社でしたね。それまで高卒で最初から本社に入った人っていなかったんですよ。「何でかな?」と思ったら、入ったあとにわかりました。

後に日本サッカー協会の会長になる小倉純二さんが自分のところに選手を入れたいと考えたんですよ。だから、それで経理部財務課というね、とても自分に合ってるのかどうか分からない真面目な部署に配属されたんです。

住むのは横浜の三ツ沢公園の裏にあった古河の社宅でね。午前中丸の内で働いて、午後横浜に戻って相鉄線の平沼橋のところにあった工場のグラウンドに行ってトレーニングをしてました。あの当時の練習は14時からだったかな。

小倉さんはしばらくするとロンドン支店に転勤になったんですけど、その後の課長は「サッカー部の選手ってあまり仕事はしなくていいよ」って感じだったんです。でも自分は仕事をやるからにはしっかりやりたいと思ってたんで「もっと仕事をさせてほしい」とお願いしてやらせてもらいました。

それできちんとやったら、大変なんですよ(笑)。経理だから月末と期末はとことん。だから横浜での練習が終わってからまた東京の本社に戻って、22時過ぎまで働いてから横浜の社宅に戻ってましたね。

しんどいことはしんどかったんですけど、そのとき分かったんです。やるべきことをしっかりやっていくと、職場の人たちが本当に応援してくれるんですよね。「カンちゃん(菅野監督の愛称)行ってらっしゃい、頑張ってね」っていつも声かけられて。

指導者になって、たとえば東京電力女子サッカー部マリーゼのときもそうでしたし、ノジマステラ神奈川相模原のときもそうですけど、「働いている選手が仕事をしっかりやらないと、職場で応援してもらえないぞ」「みんなにかわいがられるっていうのは、仕事をしっかりやって、その姿がみんなに認めてもらえるからなんだよ」っていう話をよくしてました。

アマチュアだったらサッカーも仕事もがんばってるというのが当たり前のことなんですけど、それをしっかりやってる選手っていうのは温かく応援してもらえる存在になるって思いますね。

そういう中で現役生活を続けてたら、31歳のときにJリーグがスタートするってことになったんです。そんな話が聞こえてきたのが1991年7月かな。自分と、後に日本代表のGKコーチになる加藤好男さんの2人が30歳以上で、あの当時で言えば30歳超えるとそろそろ引退ってところでしたね。

だからこれはベテランとしてやらなきゃいけないと思って、会社に言いに行ったんです。「今の若手選手は当然プロになるんでしょうから、それだったら早くプロ契約してあげてください」って。そうしたら会社はすぐに了解してくれました。

ただ自分に関しては正直に言うとプロになるかどうか迷ってました。家族もあったし、今までどおりアマチュアのままでも試合には出られるわけで。職場の人たちからも「アマチュアのまま会社に残りなよ」と言われてね。

アマチュアだったら引退した後も会社に残って60歳とか65歳までは生活が続けられるんですよ。でもプロになったら契約満了後の生活はどうなるか分からないし。

将来のことを考えて悩んで、妻に相談したりしたんです。ただやっぱり「プロでやりたいよ」っていう気持ちがね。同じ土俵だったらアマチュアじゃなくてプロとしてやりたいって。最後は「クビになったら何をやってもみんな食べさせるから」みたいな話をしてね。

なんだろう、やっぱり高揚感もすごく手伝ったというのもあるし、やっぱりサッカーに対してとことん付き合いたいっていう思いがあったからね。それで妻に何とか了承してもらって、1992年7月1日、プロになったんです。

1992年は翌年のリーグ戦スタートの前哨戦としてJリーグヤマザキナビスコカップがあって、1993年5月15日にJリーグがスタートしてね。結局リーグ戦に2試合、カップ戦に1試合の3試合出たのかな。

それで1993年のシーズンが終わったときにGMの川本治さんから「よくがんばったから、このへんで」って言われて、いわゆる「0円提示」を受けましたよ。来季の契約っていうところに「0円」って書いてあるんです。

ただ「カンちゃんには選手辞めて、やってもらいたいことがあるんだ」って、強化部の仕事をオファーされたんですよ。当時強化部は川本さんが1人でやってるようなもんだったんで。

だけど僕は指導者の道に進みたかったんで、「現場のコーチとかできないですか? 指導者になりたいんですけど」ってお願いしたんですけど、「いや、それは今のうちのクラブではないな」って言われてね。

次の仕事の声をかけてもらえたのはありがたいって思いつつも「いわゆるスーツ組かぁ」って悩んでたら、京都パープルサンガ(現・京都サンガ)から選手としてのオファーをもらったんです。

 

■「オレはそんなサッカーやりたくない」監督に反旗を翻した結果……

ずっと古河、ジェフって同じところでしかやってなかったし、今みたいに移籍が当たり前の世界じゃなかったから悩んだんですけど、「他のチームはどうなんだろう」って興味が湧いて。

声かけてくれたのが嶋谷征四郎さん(故人)っていう元古河の方で、出身地の京都に戻ってスポーツショップを経営しながら京都紫光サッカークラブを面倒見て、京都パープルサンガになって監督に就任なさっていたんです。

その嶋谷さんと話をして「よし、ここで選手としてがんばろう」って。子供たちはもう小学校に通っていて、転校するのをやっぱり嫌がってましたけどね。ただ最後長男が、「お父さんがサッカーできるんならどこでも行くよ」と言ってくれたんです。あれを聞いたらがんばるしかないって。だから現役の最後は子供たちにがんばらさせてもらえたという感じです。

京都のときは滋賀県の近江八幡に住んで、京セラの八日市工場の中のグラウンドで練習してました。地元の人は「この辺は雪ってそんなに降らない」っていってたんですけど、なぜか移籍した1994年は連日の雪でね。

雪のグラウンドと体育館でトレーニングしてたら、やっぱり膝にきちゃって。それまで膝は一切傷めたことがなかったんで長くプレーできたと思ってるんですけど、それで初めて膝をオペしたんです。トレーナーは止めたんだけど1カ月半で復帰しました。

試合では元日産自動車にいたエバートンと組んでダブルボランチをやったんですけど、なんせエバートンは全く中盤の底にいないのよ。だからいつもワンボランチみたいな形でやってて。

でもね、僕も元々攻撃の選手だからやっぱりいい流れになったら上がっていくじゃないですか。そうしたら怒られるんですよ。ジョージ与那城コーチからね。役割としては確かに僕が残ったほうがいいとは思ってたけど。

結局ね、自分の現役最後の試合は前半上がっていって1点取ったんです。そうしたらハーフタイムに代えられたんですよ。もう全く納得いかないんで、次の練習のときに実質的に指揮してたジョージコーチに話をしに行ったんです。

そうしたらもうとにかく「上がったらダメだ」って一点張りなんで、「オレはそんなサッカーやりたくない」と言ったら、もうそこから使ってもらえなくて。最後のサッカー人生かけてたのに、自分のそういう意見で「じゃあいいです」って外されちゃってね。それで引退ですよ。

でも嶋谷さんは育成部門もしっかり作ってらして、ユースが出来て2年目か3年目に入るところで、「そこでコーチをやんないか」って誘ってもらって指導者生活をスタートさせました。

そのころ、今の日本サッカー協会会長の田嶋幸三さんが、日本サッカー協会の強化委員長だったんですよ。そしてナショナル・トレーニングセンター(トレセン)をどんどん充実させていこうというときで、指導者になりたての自分をトレセンコーチにしてくれたんです。自分の指導者としての基礎はそのトレセンコーチの3年間で得られたもんなんです。

地域の中学生年代の指導者を集めて、上田栄治さんと一緒にフランス、スペイン、イタリアに連れて行ったりもしましたね。当時、上田さんが北海道を、僕は最初に東海を担当して、トレセンをどんどん変えようとしてました。地域選抜大会を研修会方式に改めたりとかね。

Jヴィレッジができたから、全国9地域の指導者をそこに集めて研修会をしました。その指導者たちの前で指導する手本を見せるという場を与えられたんです。

あのころ高校や地域のクラブの指導者は、誰かを参考にするということが出来ないまま自分だけで模索してたんですよ。逆に言えば何をやってもオッケーということにもなってて。だから研修会の場で別の形を知って、自分の指導についてみんなからの意見を聞いたりしないと、やっぱり成長できないんです。

研修会は3日あって、いろんな人が指導の手本を見せて、受講者の人は最初の2日でたくさん見て回って、3日目は自分の好きな指導者のところにもう1回行って話を聞くという形でした。3日目に結構たくさんの人がもう1回来てくれたんで、本当にうれしかったですね。

実はそのとき受講者の1人が僕の指導の様子をビデオに撮っておいてくれたんです。あとで僕にも送ってくれたんですけど、なかなか見る機会がなくて。でもJリーグの監督になって「うまくいかない」とちょっとへこんでいたときにそのビデオを見たんです。それで自分が指導している姿を見て「あれ? 菅野、結構やるじゃん。いいじゃない」って(笑)。それに勇気づけられました。

 

 

■中田英寿は日本人選手の中で一番視野が広かった

東海地区のトレセンを担当してたとき、高原直泰とか小野伸二とかがいました。彼らが高校2年から3年に上がるときの1月だったかな。ニューイヤーズカップというのがあって、高校選抜とU-17トレセンと海外のチームを呼んで試合をしたんです。U-17トレセンチームは上田さんが監督で自分がコーチで。

当時のトレセンは「前を向く」というのがテーマで、大会前の練習試合でU-17トレセンは帝京高校とトレーニングマッチをしたんですけど、ボールを受けに下がってばかりで全然ダメだったんです。それで僕がトレーニングを担当させてもらって、「受ける動きから背後を突く」というのを1日やったんですね。

そうしたらニューイヤーズカップの初戦で、受ける動きから飛び出した高原に小野のパスがピッタリ合ってゴールしたんです。「すごいな、すぐ吸収したな」って驚きましたね。上田さんも、そのときの指導者としての僕のイメージをその後もずっと持ってくれてたんだと思いますね。

その後、結局トレセンは3年で辞めて、京都の育成の中でリーダーをやってました。京都にハンス・オフト監督と清水秀彦コーチが来たときはアシスタントコーチとしてトップチームにも関わったり、そこからもう1回ジュニアユースを担当したり。

その間も京都サッカー協会の仕事や関西クラブユース連盟の理事をやったり、関西のほうにしっかり根を下ろして、自分としてもすごくやりやすくなってたんです。

京都の人ってよそから行くとまず見てるんですよね。「この人何が出来るんだろう」って。そしてそこで「いい」と思われると、逆にすごく入ってきてくれる。だから人間関係も含めてサッカー関係で広がりもできて、自分の言うことには耳を傾けてくれる感じで「京都はすごくいい土地だ」と思ってました。けれどクラブでは次第に厳しく圧をかけられるようになって。

そのときに昔、古河で一緒にプレーしてた水戸ホーリーホックの監督だった小林寛さんからコーチとして声をかけてもらって、それで行きました。2001年だから、40歳のときですね

行ってみて思ったのは、選手を辞めて指導者になるんだったら、やっぱり育成をまずやったほうがいいということでした。選手からすぐトップチームを見る指導者になると生活が変わらないじゃないですか。チームに関するいろんなことは他のスタッフがやってくれるし。

でも育成を見てたら、朝、試合会場に行って石灰でラインを引くところからでしたからね。もちろんそういう姿を見て他の指導者たちに信頼してもらえたというのはあるんですけど。結局、7月に小林さんがGMになるからって監督を引き継いでね。

水戸に行っても、当時は財政的に厳しかったからやっぱり何でもやらなきゃいけないんですよ。試合が終わったあと、コーチと一緒にコインランドリーで選手のユニフォームを全部洗ったりとか。練習会場も毎日違うし。

それでも最後はクラブが傾いちゃって、給料未払い3カ月ぐらいあったと思います。今思えば最初にそういうクラブの監督をやったというのはいい経験になったんですけどね。

そうしたら2003年、大宮アルディージャに声をかけてもらったんです。最初はよかったんですよ。本当にいい流れを作れたし。ただ途中からだんだん歯車がかみ合わなくなってきちゃいましたね。そんなときですよ。自分の指導のビデオを見返してたのは。結局、指導者としてクビになったのは大宮が最初ですね。10月ぐらいだったと思います。

翌2004年は浦和レッズのユースの監督になり、2005年は上田さんが湘南ベルマーレの監督になってコーチとして呼んでくださったんです。1年はそのままだったんですけど翌2006年の6月に上田さんが辞任して監督就任ですよ。

実は上田さんが辞任を表明する前に、強化部長から「監督が辞めると言っているから後任を引き受けてくれないか」という打診があったんです。だけど即答で拒否して、その場で上田さんに連絡して「上田さん、何言ってるんだ、冗談じゃないよ」って。たぶん泣きながら話してたと思います。それで上田さんは「分かった」と続けてくれたんです。

でも結局そこからまた3試合ぐらい勝てなかったんですよ。そうしたら上田さんから「カンちゃん、もう引き留めないでくれ」と言われて、それで分かりましたと後を継ぐことにしたんです。

僕になって積極的に使ったのは石原直樹でしたね。上田さんが監督だったときも練習後2人になったときに「なんで石原を使わないんですか」「直樹を使いましょうよ」って話をしてたんです。確かに石原はケガをして、復帰はしてたんですけど上田さんは何か引っかかってたんでしょうね。

だから自分が監督になってからは石原を使いました。石原も力を発揮しだしてね。徐々によくなっていくのが感じられると指導者冥利に尽きますね。ああいう場では結果を求められるし、出さなきゃいけないんですけど、でもその当時からプロとしての中身にはこだわってましたから。いいサッカーがいい結果につながるって信念を持ってやってました。

それからアジエルっていう希代の面白い選手がいて、彼は本当に心底楽しんでましたね。外国籍選手にはジャーンもいたし、みんなの見本になる斉藤俊秀も来てくれてね。坂本絋司をボランチにして、そうしたらますます活躍してくれて。あれで彼の選手生活は延びたんじゃないかな。

あるときは引退した中田英寿が来てくれて、お願いして一緒に練習してもらったことがあるんです。中田はこれまでの日本人選手の中で一番視野が広かったですね。常に周りが見えてて正しい判断が出来てすごかったですよ。

Bチームに入って次の対戦相手の中心選手の役をやってもらって、「次の試合はこの選手がマーク役なので付けるよ」って言ってプレーしてもらったんだけど、全然歯が立たなかったですね。

湘南の監督は2008年まで務めて、2008年は最終戦まで3位の可能性があったんですけど結局5位になって昇格できなくて、それで契約が終わりです。

それでどうしようか、Jリーグの解説をしながら次のチャンスを待つか、JFLのチームからのオファーを受けるかとか思っていたら、日本サッカー協会の女子委員長に上田さんが就任してて、マリーゼが新しく指導者を募集していると教えてくださったんです。

 

■女子サッカーの面白さに気づかせてくれた選手

正直に言うとそれまで女子の試合を見たことがなかったんですよ。それでマリーゼと日テレ・ベレーザの試合を見たら、こんなにレベルが高いと思ってなくて驚いたんです。その試合で輝いていたのがマリーゼの丸山桂里奈で、ドリブルが男みたいでした。こんな選手もいるんだ、女子サッカーって面白いかもしれないと感じたんですよ。

あとは、実は家族の問題があって。Jリーグの監督をしていて負けると学校で子供がいろいろからかわれるんです。そういうのを子供がすごく嫌がっていてね。だからマリーゼが活動している福島県に行くのもいいかと思ったんですよ。

それでマリーゼに行って丸山を見るのを楽しみにしてたら、これが走るのが嫌いなんですよ(笑)。そして好きなことは一生懸命やるけど嫌いなことはやりたくない。だから最初はSNSで僕のことをすごくウエルカムって書いてくれてたんだけど、だんだんトーンダウンしていってね。丸山は会社の中でもかわいがられてたけど、仕事じゃなくて性格でかわいがられてました。

もちろん試合には使ってたんですよ。でも「ここが痛い」「あっちが痛い」と言っては練習を休むようになってきたから出番が少なくなってました。その年に入った安本紗和子って、元なでしこジャパンで今は韓国でやってる選手がいるんですけど、安本のほうが出るようになって、それで丸山は海外に行くってアメリカに行ってしまいましたからね。

マリーゼには鮫島彩、上辻佑実、長船加奈もいて、この3人はなでしこジャパンに入らなければいけないと思ってました。結局3人とも代表選手になりましたね。

僕が行く前の年が6位、最初の年が3位で、しかもそれまで1回も勝ったことがなかったベレーザにシーズンで3回戦って2勝1分だったんです。翌年も3位、そしてだいぶ優勝に近づいたという感触でした。

今年こそと思っていたのが2011年で、東日本大震災が起きたんです。ホームグラウンドのJヴィレッジは資材置き場になりましたし、選手が働いていた職場もなくなってしまったんです。福島第一原子力発電所で働いていた選手が一番多くて、他の場所も行けなくなってしまいましたからね。

震災の前日、宮崎県に入ってシーズン前の最後のキャンプを張っていたんですよ。そうしたら自分たちがよく知っている場所がテレビに映し出されていました。どんどん気持ちが落ち込んでいって、会社からは帰ってきたら自宅待機と言われていましたし、選手たちは全員寮に入っていたのですが、その場所は避難地域になっていたから帰れないんです。

僕の家族は避難所を転々として、最終的には東京の長男の家に身を寄せることにしたんです。18時に出発して到着したのが次の日の早朝の4時で、そこで僕はやっと家族の顔を見ることができたんです。けれど、心の底から喜べたかというと、亡くなった人や行方不明になっている人や避難所にいる人のことはいつも頭の中にあってね……。

ただ、監督としてやらなきゃいけないことがあったんです。それは選手の移籍先を捜すことで、特になでしこジャパンの鮫島にはプレーの空白期間を作っちゃいけない。ちょうど1月下旬にアメリカの選手がマリーゼの練習に参加していたので、その伝手で移籍させることが出来たんです。

あとは国内のチームはもう構想が固まってたころだったんですけど、いろいろなチームの関係者にコンタクト取って、選手の特徴なんかを正直に話して、マッチングするようなら選手に移籍を打診してました。「どうだ、サッカーやる気になったか?」とか「プレーしたくなってきたか?」って確認しながら。

言ってみれば自分が作って来たものを壊す作業ですからね。僕自身も精神的にやられて、人前に出られるようになったのは4月半ばだったような気がします。

選手のための作業が終わってからは、ボーッとしてました。そうしたらそこにノジマから声をかけてもらったんです。神奈川県出身の女子選手が活躍しているから、神奈川に受け皿としてのチームを作りたいって。

練習場やクラブハウスは今から作るし、選手もこれから集めるということだったんですけどね、そういう新しいものを作るというところでまた心に火がついた気がしてね。それでステラに行ったんですよ。

少しでも早くなでしこリーグに行きたかったから、1年目は負けられない戦いばっかりだったんです。でもいろんなとこで恵まれてましたね。初代キャプテンだった尾山沙希とかそういう精神的に強い選手が最初からいてくれましたからね。

他の選手も含めてあの段階でああいう選手を集められたというのは、やっぱり女子の受け皿が今よりも格段に少なかったという面もあったと思います。いい選手も受け皿がなかったから高校や大学を卒業するときに辞めちゃったというのがあったでしょうね。そのころから少しは時代が変わったと思います。将来も楽しみですね。

もし今の自分の知識を全て持ったまま過去のどこかに戻れるとしたら……高校時代か、古河に入った最初のときかな。サッカーの考え方が絶対に違ったから。自分のことばっかりで、自分の技術に頼っていて、たぶん周りを見られてなかったと思うんです。

もしあのときの自分の体力と技術に、今の頭があったらきっと全然サッカーが違っただろうなって。素晴らしいプレーが出来たと思いますよ。指導者や女子をやった経験を持っていきたいですね。トレセンのとき、人に教えるために自分で実践していたらより見えるようになったんですよ。指導者になって気付くことが多かったですからね。

 

■試合を見にきてぜひ立ち寄って欲しいお店

え? レストラン? ああ、食べるところね。え? そういうのもしゃべるの?

あのね、うちのチームのスポンサーがやってる店なので宣伝だと思われてしまうかもしれないんですけど、「シルバンズ」という河口湖の店を紹介させてください。ここはそういう身内というのを抜きにしていいところですから。

「富士すばるランド」っていう、アスレチック的なアトラクションとかドッグスポットという犬と遊ぶドッグランがある家族向けのテーマパークなんですけど、そこにあるレストランなんです。

まず地ビールが美味しい。そしてチーズが美味しいんです。おっきなチーズの塊から削り出してリゾットをつくってくれたり。つまみも各種あります(笑)。それがいいんですよ。FCふじざくら山梨を見に来たとき、ぜひ立ち寄って一緒に楽しんでいってくださいね。

→「シルバンズ

 

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菅野将晃(かんの・まさあき)
1960年8月15日生まれ、神奈川県出身。古河電工、ジェフユナイテッド市原、京都パープルサンガでプレー。引退した95年から京都のユースコーチとして指導を始め、水戸ホーリーホック(2001-2002年)、大宮アルディージャ(2003年)、湘南ベルマーレ(2005-2008年)、TEPCOマリーゼ(2009-2011年)、ノジマステラ神奈川(2012-2018年)などで監督を務める。2019年からFCふじざくらを指揮

 

有料WEBマガジン「森マガ」では、後日、栗原選手インタビューに関する「インタビューこぼれ話」を公開予定です。

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森雅史(もり・まさふみ)
佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。2019年11月より有料WEBマガジン「森マガ」をスタート

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