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古巣を見返してやると思っていたけれど……移籍を繰り返した水沼宏太の心の中【サッカー、ときどきごはん】

 

10年前に離れていった
そこからいろんな人に出会い
たくさんの経験をして成長した
そこにもう一度声がかかった

古巣に戻った選手の物語は
そんな浪漫を感じさせるものだ
今ひとたび故郷での活躍を誓う
水沼宏太に半生とオススメの店を聞いた

 

■水沼宏太はなぜ移籍を繰り返したのか?

最初横浜F・マリノスに入ったときって、こんなにいろんなクラブに行くとは正直、思ってなかったですね。

自分の中ではマリノスで最初から試合に出られるぐらいの自信を持って2008年にプロになったんです。結局、マリノスから栃木、鳥栖、FC東京、セレッソと4クラブでプレーして、2020年にマリノスに戻ってきましたから5回移籍したことになります。

一番最初の移籍は2010年、20歳のときですね。3年目の夏に栃木SCに行ったのが最初だったんですけど、自分の世代は2012年にロンドン五輪があって、自分も年代別代表に選んでもらってて、五輪は何としても出たいと思ってたんです。

2007年、高校3年生のときにマリノスの2種登録選手として3試合に出場してました。そのころマリノスは高校生でリーグ戦に出てる選手が全然いなくて、僕が初めてぐらいだったと思うんです。だから「これはプロになってずっと練習してたら試合に出られる」という感覚になっちゃったというか。何も知らない自分はそう思ってました。

でもいざプロになってみると、そんなに甘くないというのをはっきり見せつけられました。なかなか試合に出られなくて、プレーしてないと五輪代表に選ばれないだろうっていう気持ちがあったんですよ。

やっぱり試合に出る環境に行かなきゃとも感じてたし、移籍について悩んでた時期にちょうど2010年南アフリカワールドカップがあって、その日本の試合を見て決断したんです。

ベスト16で日本がパラグアイにPK戦で負けて、「サッカー選手を目指してやってきてサッカー選手になって、次の自分の目指すべきところはここだ」って。それなのに自分は全然プレーしてなくて「何やってんだろう」「やっぱり試合出たい」「出る保証はないけど、環境を変えて自分を変えたい」、そんな気持ちになって決断したんです。そのときのことは今でも鮮明に覚えてます。

父(水沼貴史氏)がずっとマリノス一筋でやってきたのを見てたので、自分の中では外に出ていくという想像もできてなかったですね。でも、それよりもプロとして生き残れるかどうか試されてる時期だっていう危機感を持ってました。

栃木SCからは2009年にもオファーをいただいてたんです。そのときは同じ関東のクラブなんですけど、正直全然栃木がどういうクラブなのか知らなかったし、誰がいるのかも分かってなかったんです。

でも2010年は「俺は栃木でやる」「栃木で絶対結果残してやる」「栃木に行ってダメだったら俺は終わる」という気持ちで移籍しましたね。プロサッカー選手としてずっとやっていきたい、日本代表になりたいっていう気持ちがあって、そこを考えると、腹くくるじゃないけどプライドを全部捨てて行ったというのはあります。

今でも覚えてるんですけど、2010年の夏、ワールドカップ期間のリーグ戦中断中に栃木はミニキャンプをやってたんです。そこに直接行って、夜到着してから全然友だちもいない中で挨拶して、「頑張ろう」って思った記憶はハッキリあります。「もうやるしかない」って。

「環境は悪いよ」って最初に栃木の強化の方から言われてました。悪いとは言われつつも、どれくらいのレベルなのか全然想像してなかったんです。当時マリノスはマリノスタウンがあって、体一つで練習場に行けば全部揃ってる環境だったんですよ。

それでいざ栃木に行ってみたら、練習場所はいくつもあって毎日のように変わるし、人工芝の練習場もあるし、スパイクも練習着も全部自分自己管理で、家に帰ったら自分で洗濯するという環境だったんで「こういうことか」と思いました。

思いましたけど、今となってはあれを経験できたからここまでプレーできていると言っても過言ではないぐらい、本当に素晴らしくよかったと思ってます。練習着を洗濯するなんて1回もやったことなかったし、ユースのころまで実家で母にやってもらってましたから。そういうことに感謝の気持ちが芽生えてきたり、いろいろ感じることができました。

ところが栃木に移籍して一番最初の試合でいきなりケガしたんですよ。軽かったんですけど、もうダメだって思いました。ただ、治ってからずっと松田浩監督(現・V・ファーレン長崎監督)に1年半ほぼフルで使ってもらって。そこで少しは自信を取り戻せたというか、ようやくプロとしてやっていけるんじゃないかって気持ちになりました。

2010年はロンドン五輪チームの立ち上げの年で、栃木に行ってすぐアジア大会があったんです。ロンドン五輪を狙うチームと言ってもJ2の選手、J1で全然出てない選手、大学生の選手で結成されてたんですよ。世間的には優勝なんて誰も思ってなかったんですけど、優勝することができたんです。僕も栃木の選手として選ばれて、自分の価値をもう1回見せつけることができた大会でもありました。

そのころは期限付き移籍だったんですけど、マリノスに帰ることよりも栃木で結果を残さなきゃいけないという感じだったんで、自分はこのチームの人間なんだと思ってやってました。

2011年、栃木での2年目はJ2リーグで37試合に出場したんですが、期限付き移籍期間が終わった時点でマリノスはそんなに「帰ってきてほしい」という感じじゃなかったんです。僕はとにかく「自分を変えたい」「もっとタフになりたい」「もっと強くなりたい」と思って海外行きを模索しました。トライアルって形でしたけど、ルーマニアに行って、あるチームと契約寸前までいったんです。

 

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