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猛暑も吹き飛ぶ情熱。城福浩、熱血指揮官の源流と血圧を問う

熱さをもって暑さを制す。6月に東京ヴェルディの監督に就任して以降、相変わらずアツさ全開の城福浩監督。充血気味の目で選手に指示を送り、勝利のおたけびも健在。60歳を超えてもなおギラギラした情熱を失わない源泉はどこにあるのか? また血管のほうは大丈夫なのか? 指導者としての軌跡と監督業における体調管理を聞いた。

インタビュアー・構成/海江田哲朗

 

■監督就任の瞬間に始まる監督ではなくなる日へのカウントダウン

――J2で指揮を執るのは、2012シーズンのヴァンフォーレ甲府以来、ちょうど10年ぶりです。当時と比較し、リーグ全体のレベルの変化は感じますか?
「上位と下位の差のなさは感じますね。ユニフォームを替えてみれば、どちらが上か下かわからない試合がけっこうあります。上位のチームも必ずしも絶対的な強さを示すわけではなく、際どい試合になっていることが少なくありません」

――あのときの甲府はシーズン中盤以降、一度も敗れることなく駆け抜けて優勝しました。当時、樹立した24戦無敗のリーグ記録は現在も破られていません。以降も監督業を続けてきて、ご自身の変化は?
「どうでしょう。自分自身をアップデートし、進歩していかなければこの世界にいることはできません。世界最先端のサッカーを認識し、変えられる力を示さない限りやれない仕事だと考えています。どのチームで仕事をするにせよ、毎年シチュエーションは異なり、クラブごとに独自の背景を持っているもの。そこで、どうやってチームの最大値を出し、どのようなやり方で引っ張っていけるか。毎年、毎月、毎日が模索の連続です。そうした日々を積み重ねるなかでは、後悔のほうが圧倒的に多いんですよ。うまくいったときのことはほとんど忘れています。選手に対して、もっとこうしてあげればよかった。はたして、あのときの決断はどうだったのか。悔しい思いをしたときや悩んだときのことは克明に憶えています。それらの経験が現在の自分を形づくる何かにつながっていてほしいと思うだけで、こんなふうに変わりましたと胸を張って言えるほどのものはないですね」

――後悔にまつわる出来事でぱっと頭に浮かぶのは?
「それはね……たくさんあります。監督という職業は、現在の自分が監督であるか、監督ではないかの二択。監督に就任したその瞬間、監督ではなくなる日へのカウントダウンが始まります。途中で職を追われ、任期をまっとうできないこともある。チームの調子が下り坂になりかけているとき、あるいは負けるはずのない内容で負けてしまったゲームでの選手に対する接し方など、結果的にネガティブな状況になったことはいくつもあって、ひとつには絞れないです」

――今年6月から東京ヴェルディの監督に就任。J1で手腕を発揮することへのこだわりは?
「そこにこだわっていないと言えばうそになりますね。J1でやれたこと、やり残したことがあり、その舞台で戦いたい思いは持っています。例年、J1の18人の監督のうち約3分の1は途中で代わり、チャンスを待つ1年にするという選択肢もありました。今回、ヴェルディからオファーをいただいて、その考えが変わったんです。J1でやりたいなら自分でチームを上げればいいんだと」

 

■ボールを見るのも嫌になった引退後の4年間

――今回は城福監督の溢れる情熱がテーマです。その原点を知りたく、富士通サッカー部(現川崎フロンターレ)で接点のあった松田岳夫監督(WEリーグ1部・マイナビ仙台レディース)に少しお話を伺いました。年次がひとつ下の松田監督は、よく飲みに連れていってもらったと。
「富士通では飲み仲間でしたね」

――中盤でプレーし、ショ-トパスでゲームをつくるのが上手だったこと。オンとオフの切り替えがはっきりしていたのが印象的で、サッカー部の活動に加えて残業も一生懸命されていたのを松田監督は記憶しています。
「当時の日本リーグはプロではないので、昼の2時か2時半まで仕事をしてサッカー部の練習です。キャンプの時期は丸々1週間、会社に顔を出さない。そうなると、職場ではお客さんになってしまうんですよ。自分は仕事もやれる範囲でやりたいと、『仕事をください。残業で解決できるものはそうします』と意思表示しました。元気だったんですね。毎日のように会社に出ては夜の10時頃まで仕事をし、職場で出前のカツ丼を食べて寝る生活。ただし、選手の在り方としてはよくない。あるまじき行為とさえ言えます。回復に充てるべき時間をほかに費やしているのですから」

――多少の無茶は背負い込み、仕事とサッカーの両立を試みた。
「選手を引退したあと、この会社でどうやって戦力になっていくかを最初から考えていました。もちろん、現役の間はプレーヤーとして戦力になりたい。4年目からキャプテンをやらせてもらい、6年目の1988-89シーズン、最後の日立製作所のゲームで勝利すればJSL1部に昇格できたのですが、敗れて僕は潔く辞めました。試合に出ていたのでまだまだやれる自信はありましたけれども、これ以上サッカーを続けたら仕事で同期に追いつけなくなる。コーチの方々の慰留を振り切り、6年で区切りとしたんです。それから社業に専念して4年間、丸いものを見るのもいやだというくらいサッカーから離れました」

――28歳の若さで現役を退き、ところが1993年になってコーチとして復帰します。
「僕がキャプテンを務めていた時期、中国の改革開放政策の一環で代表選手が3人加入したんです。当時の中国代表は強くて、ワールドカップ出場権をつかむ寸前までいき、オリンピック予選でも日本は勝てませんでした。そのひとりが沈祥福(シェン・シャンフー)さん。中国では鄧小平国家主席とテニスをするくらいの英雄です。ある日のトレーニングで、僕らは散々走らされているのに彼らが免除されていたのに納得できず、監督に抗議したんですよ。自分たちだって好きで走っているわけではないと。その様子を見たシェンさんはだいぶびっくりしたみたいでね。やがて現役を引退したシェンさんが富士通の監督に任命されたとき、『城福をコーチングスタッフに加えてくれ。そうでなければ仕事を受けない』と条件を出し、サッカー部に復帰せよという話に。最初は断りました。仕事のためにサッカーを辞めたのに、なぜいまさら戻されるのか。本当ならあと3年くらいは現役を続けられたんだと人事担当に言ったら、業務命令だからやってくれと」

――業務命令とはいえ、ずいぶんと酷な。
「異動を受け入れる代わりに、すべてをサッカーに費やさせてくれと交渉しました。本気でやるのであれば、選手と同じタイミングでグラウンドに出ていては仕事になりません。そして、僕は職場にまったく顔を出さない人間になりました。あらゆる仕事をしましたね。用具の管理からゴールネットの設置、ライン引き、選手を勧誘するリクルーティング、もちろんヘッドコーチの仕事も」

――その頃、松田監督は読売クラブに移って指導者の道に入っていましたが、部に復帰したのを知り大変驚かされたそうです。
「そうだと思いますよ。遅れた分は体力で取り返せると、土日もほとんど会社。4年間、まったくサッカーに近寄りませんでしたから」

 

上体を大きく反らせる勝利の雄たけびは城福監督のトレードマークに。
写真提供:東京ヴェルディ

 

■「頭の毛細血管が…」。人間ドックで医師から告げられた衝撃の事実

――こうなった以上、職場には戻らない考えだったんですか?
「いえ、戻ろうと思っていました。90年代の初期、Jリーグのスタートに向けて各企業が手を挙げていくなか、サッカーを福利厚生の一環として捉える富士通は撤退の方向。1994年から2年間監督を務めたシェンさんが中国に帰ることになり、翌年はプロ化に動くか、活動を停止するか進退を決するシーズンになるという話でした。どちらの可能性が高いかと訊くと、8割方は撤退する見込みだと。ここまで関わってきた富士通サッカー部がなくなるのであれば、最後の1996シーズンは自分が監督をやりますと申し出たんです」

――最期を看取るつもりで?
「そうですね」

――ところが、出た目は残りの2割のほうでした。
「J2が発足することになり、1996シーズンの途中に富士通がJリーグ参加を表明し、準備室が立ち上げられました(※10月17日、サッカー部のプロ化、Jリーグ入りを目指す記者会見を行っている)。プロになれば予算が一桁違います。外国籍選手を獲得し、プロ監督を招聘することになる」

 

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