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小さな街でプレーした中田麻衣子さんが感じた女子サッカーのプレー環境とモチベーション

岡山湯郷Belle、愛媛FCレディースでプレーされた中田麻衣子さんを覚えていますか。なでしこリーグオールスター2006でもプレーされています。岡山湯郷Belleのファンからは「宮間さんの前線へのパスに走り込んでいたスピードのある若い選手」、愛媛FCレディースのファンからは「愛媛FCレディース立ち上げに参加した初代キャプテン」として記憶されているのではないでしょうか。2014年に引退され、現在は、郷里の仙台市を拠点に一般社団法人solufaction(ソルファクション)の活動をされています。

今回のインタビューの前半では、現在の中田さんの活動をうかがいます。後半では、女子サッカーをプレーする環境、仕事、モチベーションについて、現役時代を振り返って語っていただきました。

宮城県の健康課題の解消を目指したスクール事業

—宮城県での現在のお仕事を教えてください。

中田–今は「フットボールでハッピーに」をテーマに、故郷の宮城県で一般社団法人 solufactionの事業を行っています。宮城県の健康課題は「大人はメタボ」、子供は運動能力の低下。全国的に下の方のランクなのでサッカーを通して幅広い年齢の男女の健康課題を解決しようとしています。対象は下が2〜3歳、上が70歳代です。

「女子サークル」「エクササイズ」「エンジョイ」「イベント」の4つの柱で事業を行っています。その中で気軽に始められる女子サッカースクールをやっています。スクールはスキルアップを重視していないので、もっと(ハイレベルで)やりたい人にはスポーツ少年団を紹介したりしています。プログラムに、動作教育としてヨガを取り入れたりして、遊びの中でサッカーを好きになってくれればと思ってやっています。

女子サッカーの課題、中学生年代のプレー人口を増やしたい。しかし、試行錯誤中。

中田–仙台の女子サッカー普及の幅はまだまだ狭いと思います。小学生でプレーする子は多いと思います。ただ中学生になったときに部活動の継続やクラブなどでの継続に繋がらず人数が減ってしまいます。高校は(常盤木学園高校、聖和学園高校等)強豪校があるから遠方から集まって人数がいる感じです。中学生年代の競技を続けられる環境を増やしていくことで、少しでも状況が変わってくるのかなというのは凄く感じます。

中田–(事業を始めて)一年目に中学生向けの女子スクールを平日に入れたのですが、全然(参加者が)来なくて・・・部活もあるので時間が取れないとか予約したのにキャンセルとかあって、このやり方じゃないのかなと思って、次は中学生年代の大会とかもやっていたのですけれど、なかなか中体連所属の女の子が参加してくれる状況ではありませんでした。

クラブチームにも声をかけて参加してくれましたが、そうすると、試合経験や練習環境の差が出てしまい、中体連所属の選手が一歩引いてしまうように感じ「これもやり方が違うのか」と思って・・・、今は定期的に中体連所属の子だけ集めて練習会をやろうとしています。

—中学生年代には、ただプレーする場を提供すれば良いわけではないのですね。試行錯誤ですね。

中田–練習でボールを触る回数が少ないのかなーという印象があって・・・話を聞くと中学生2年生くらいまでは一緒に(対等に)できるけれど、2年生の夏休みくらいからは体格差が男女で開いてしまって、フィジカルコンタクトで男子に弾かれたりして、もう「嫌だ」という声も耳にします。

—今後の事業の中で、女子サッカーに関する目標を教えてください。

中田–女子のスポーツに力を入れてきた事業でもあるので、女子サッカーの面で言えば、もちろん、サッカーを続けてくれることは嬉しいです。しかし、現状は中学校で違う競技に転向する子が多いので、サッカーを通してスポーツの楽しさを知って、どんな競技に行っても対応できる運動動作スキルのサポートをしていきたいです。大人になってサッカーと出会った皆さんも含め、楽しむ幅が広がって、コミュニティが生まれていくことで、生涯スポーツとして楽しめる場を提供していきたいです。

「とてつもないど田舎」に充実した練習施設

—では、ここから話を少し昔に戻します。プレー環境についてうかがっていきます。常盤木学園高校を卒業して、2002年に、クラブが立ち上がったばかりの岡山湯郷Belleで社会人としてのプレーを始められたのですが岡山湯郷Belle入りのきっかけは何だったのでしょう?

中田–常盤木学園高校の先生に「岡山に女性監督のチームが出来るから」と紹介されて行きました。そこで本田美登里監督(元日本女子代表、現・静岡SSUアスレジーナ監督)のことを初めて知りました。事前に「とてつもないど田舎です」と書かれた資料を見てから、岡山県美作市(湯郷温泉)に心して行きました。行ってみたら思ったほど田舎でなくて「全然、生活できる!」と思いました(笑)。グランドに行ったらとても充実した練習施設があって、行った日に、親に「私はここでやりたい」って言いました。

みんなが女子サッカーに興味を持ってくださった湯郷温泉での生活

—お仕事はどうでしたか?

中田–湯郷温泉の旅館で働いていました。最初は厨房でご飯の盛り付けをさせていただいていました。朝はとても早くて6時から12時くらいまで働いていました。3ケ月くらいして、仕事がフロントに移って7時からになりました。岡山湯郷Belleは「湯郷温泉で働くクラブ」ということだったので一期生の人はほとんどが湯郷温泉で働いていました。ただ私たちは試合があるので、土日にいなくて、旅館の繁忙期にいないから、ちょっとミスマッチなところはあったみたいです。

中田–旅館の寮に住んでいました。宴会場の上の部屋でした(笑)。今、考えると規則正しい生活でよかったです。練習は16時からなので、練習前と後に自分の時間を取れました。練習後に、温泉に入りながらみんなで(サッカーの)話をしたりしましたし、睡眠もしっかり取れました。湯郷温泉全体が、力を入れて応援してくださりました。最初はスタンドに10人くらいの応援だったのですが、勝ち進むについれて試合が街の人たちの楽しみになっていくのを感じました。みんなが興味を持ってくださっていて、スーパーの買い物に行っても「今日はこうだったね」と話しかけてもらったり、温泉街の皆さんが本当のファミリーのような感じで応援してくださりました。

瀬戸内海を渡り愛媛県へ

—そして愛媛女子短期大学(現・環太平洋大学短期大学部)サッカー部で2009年から2010まで、愛媛FCレディースで2011年から2013年にプレーすることになります。なぜ、愛媛に移られたのでしょうか。

中田–25歳で「やり切った」っていう気持ちがあって引退を考えていました。岡山湯郷Belleで、自分が試合に出られなくなっていくのがわかったし。仙台に帰るつもりだったのですが、これまでサッカー中心の生活をしてきたので、仕事だけ(の毎日)になったときに「ご飯を食べる意味」「寝る意味」というのがわからなく、人間としてどうなのかと感じていました。

そんなときに、愛媛の方から「なでしこリーグを目指すチームを立ち上げたいから、まず短大のサッカー部として立ち上げるチームに来てくれませんか」というお誘いを受けました。正直、初めはサッカーよりも、短大でスポーツ関係の勉強ができ資格を取れることが魅力で心が揺れました。入学を決めたのはギリギリで「まだ間に合いますか?」という感じで(笑)。

—短大は松山市ではなく宇和島市にあったのですね。私は、松山市に住んでいたことがあるので宇和島市のイメージが思い浮かびますが、ここもまた遠いですね。

中田–松山からも遠いです。ここも(娯楽は)何もないような小さな街なのですが陸上競技場が短大の近くにあって、そこで試合をしました。

宇和島市

年長者としてのプレーを自覚した敗戦

—ご自身よりも年齢の低い方とプレーすることで、中田さんの立場が変わったと思うのですが、難しいことがありましたか?

中田–年齢(当時26歳)はチームメイトとかなり違いましたし(短大のチームには、当初)「小学校のときにサッカーしていました」という子もいました。人数は11人で、本当にやっていけるのかなって気持ちになりました。私は、それほど人とコミュニケーションを取るのが得意な方ではなかったのですが・・・なるべく話しかける努力はしました。

入学して2週間から3週間後に大会があったんです。あんなに、本気でやる気があるのか分からないように感じたチームメイトが、負けたらみんな泣いていたんです。泣くってことは「もっともっと上手くなりたいと思っているってことなんだ」ってわかって、自分の中で「やれる」というスイッチが入りました。

—宇和島では、どのような生活でしたか?

中田–普通に学生でした。授業を受けて、学食で食事して、練習してという生活です。

—愛媛県リーグ2部、1部、四国リーグに昇格していくに従って、チームメイトは、一緒にプレーし続ける、または離脱される方がいらっしゃいますが、印象深いことはありましたか?

中田–何人かが四国リーグに上がるときに、辞めるかやるかを迷っていたんですね、次に(サッカー以外の)やりたいことが見えている子には(その選択を)応援することができたんですが、モヤモヤしながらやめるみたいな子もいて・・・。私も一緒にサッカーをするのが楽しかったので「やる気があるんだったら一緒にやりたい」って話をして、宇和島(愛媛女子短期大学サッカー部)から松山(愛媛FCレディース)に行った子が五人でした。自分で(プレーしながら働ける)就職先を見つけてきた子もいました。就職が大変だった子もいました。

—中田さんは、どこで働いたのですか?

中田–愛媛FCレディースのスポンサー企業のグループ会社で働かせていただきました。職場の環境はよかったです。ただ、最初、面接のときに給与面で無理を言ったと思います。湯郷温泉の生活をしてたときに時給だったので、遠征が重なると手取りが減ってしまって、(そういうときに)やっぱり削るのは食費なんです。ただ食事を悪くすると、怪我をしたときに身体が戻らない、疲労回復しないんです。だから「給料はいくらないと無理です」とお願いして、(時給ではない雇用形態で)グループ会社に雇ってもらうことになりました。よくしていただいている当時の社長に、後から聞くと「あのとき中田は悲壮感に溢れていた」って言われました(笑)。今度はフルタイムで働いてから練習だったので(経済的には助かりましたが)やっぱり身体の調整は大変でした。

松山市

見られる存在になることで成長する

—中田さんが愛媛と湯郷でプレーしてきて、今、振り返ってみて良かったと思える事はありますか。

中田–学生だったみんながひとつひとつステップを踏んでいく成長の過程が見られました。指導者の導き方が良いこともあって、どんどん選手が変わっていく。学校でも顧問以外の先生が気にかけて練習場に来てくださったり、友達が見に来てくださったりして「自分たちは見られる存在なんだ」って自覚して成長していくのが面白いと感じていました。チャレンジリーグ への参入をかけた試合のときに(愛媛女子短期大学時代から)関わってくださった皆さんが、グラウンドに来てくださって、今までにない環境で試合をできたんですね。当たり前ですが選手のモチベーションが上がるんです。チームメイトが、それを感じて試合をしていることを実感して、岡山湯郷Belleのときとは違ったポジション(チーム内の役割)でプレーできて良かったと思いました。愛媛女子短期大学に入学するときに「2年で(サッカーを)やめても良いですか?」「途中で帰っても良いですか?」と何度も聞いてから愛媛県に来たのですが(合計5年間も)プレーできて、とても楽しかったです。

愛媛FCレディースでプレーしているときは、(今度は逆に)「岡山湯郷Belleは恵まれているな」とも思いました。岡山湯郷Belleは練習施設が整備されているし、いつも同じ場所で練習できますし、同じ時間に始められていました。サッカー以外はキツい生活でしたが(練習環境が良かったので)我慢できたって感じです。

プロ化で、女子サッカー選手がみんなの憧れとして見られる存在に

—女子サッカーはプロ化に向けて動いていきます。WEリーグに期待するところはありますか?

中田–FIFA女子ワールドカップ2011ドイツ大会の優勝後のシーズンはお客さんがたくさん入った環境でゲームをできて、(女子サッカーが)地域で生活される皆さんの楽しみになったという記憶があります。ああいう環境での試合を、もう一回やれれば、WEリーグが小中学生の夢のある場所、憧れの場所になると思います。
実は、今、仙台で行っているスクールに来てくれる女の子の中には、マイナビベガルタ仙台レディースの存在を知らない子も多いです。2019年9月にマイナビベガルタ仙台レディースの観戦ツアーを行って、クラブのご厚意で、参加者を試合後のピッチに立たせてもらったのですが、子供たちが今までに見せない表情をしていました。「こんな世界があるんだ」「女の人がこんなサッカーをしているんだ」ということを目の当たりにできて良かったと思っています。

マイナビベガルタ仙台レディースの観戦ツアー

女子サッカーを生涯スポーツにしていきたい

中田–日本の女子サッカーの一番上にプロリーグができるならば、みんなが女子サッカーに興味を持っていく普及のところを私たちがやって行きたい。生涯スポーツとして女子サッカーが当たり前になっていくようにしたいです。

(インタビュー:2020年7月31日 石井和裕)

インタビューの最後に、中田さんは、こんなお話をしてくださりました。

中田–当時「国体のときはプロみたいな生活で良いね」って話をしていました。勝てば1週間くらいサッカーしかしなくて良いんです。「これでお金もらえたら最高じゃん」って話をしていたんでです。でも、楽しかった国体が終わって帰れば(働いていないので)給料が3〜4万円しか入らないって現実なんで「怖い怖い」って言っていました。WEリーグには夢と大きな希望があるので、継続できるリーグであってほしいです。

プレー環境に苦しいところはあったけれど「自分たちは見られる存在なんだ」と自覚して成長していくところが、特に現役時代の楽しさとして記憶されていたようでした。WEリーグがスタートすれば、女子サッカーのプレー環境は大きく改善されることになるでしょう。注目も集まることでしょう。女子サッカー選手の夢が大きく膨らみます。そして、その入り口(普及)を中田さんのような方が全国各地で担っていかれるのです。その存在を、ぜひ、多くの方に知っていただきたいです。

(インタビュー:2020年7月31日 石井和裕)

愛媛県サッカー協会 会長 豊島吉博さんから中田麻衣子さんへメッセージをお預かりしました。ここに掲載します

中田さんは、サッカーに出会って、縁あって、愛媛に来県されました。愛媛FCレディースに在籍中は、サッカーに対する真摯な取り組みとスキルのあるクレバーなプレーで、選手やサポーターを虜にしました、そして、レディースの今日の礎を築き上げた功労者です。内外には、女子サッカーの地位向上に貢献しました。勇退後は地元に帰られ、サッカーに限らずスポーツする自体が人々に幸せと喜び与え、楽しいんだと、多くの人々にPRされています。素晴らしい活動です。ご承知のようにJリーグは「百年構想」のもとに、「スポーツでもっと幸せな国へ」をキャッチフレーズにして、活動をしています。中田さんの活動も、同様に連動してしています。地方が心身共に、豊かにならなければ、日本は本当に意味で、豊かな国になれません。そんなことも含め、中田さんの活動を応援したいし、多くの人々が、賛同参加して、自分のことととして、スポーツの素晴らしさ、楽しさを体験して欲しいと思います。

豊島さんにメッセージをお願いしたところ、約30分後には、この文章が返信されてきました。愛媛県の女子サッカーにおける、中田さんの功績の大きさを強く感じました。

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