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我々が被災地の方々から大きな力をもらった 大仁邦彌さん(JFA最高顧問)震災10年インタビュー

2021年は東日本大震災から10年の節目の年です。高倉麻子なでしこジャパン監督は福島県のご出身。先日のインタビューの冒頭で、そのことを質問すると、こんな答えが返ってきました。

高倉10月、11月に、私たちもなでしこジャパン(日本女子代表)候補トレーニングキャンプをさせていただきました。施設は(東日本大震災の前のように)今まで通り。グラウンドコンディションは素晴らしいですし、食事も良い配慮をしていただき、とても良い環境でやらせていただきました。震災直後はグラウンドが踏みつけられてしまったJヴィレッジの写真を見るのは辛かったですね。

現在のJヴィレッジ 提供:一般社団法人東北観光推進機構

 Jヴィレッジは1997年に竣工しました。多くのアスリートが使用し、日本代表等のトレーニングキャンプ地としても有名でした。また、JFAアカデミー福島の拠点にもなり、未来のある有望な若い選手たちが、ここで毎日を過ごしました。ところが、2011年3月11日に東日本大震災が発生し東京電力福島第一原子力発電所で爆発事故。約20kmの位置にあるJヴィレッジは、避難指示区域(のちに警戒区域)に指定され、長く本来の目的で使用することが出来ませんでした。事故の収束作業の前線基地が置かれ、資材置き場、駐車場、宿舎等に使用されました。

2011年3月11日14時46分18秒で時計が止まったまま、ピッチにプレハブが並んだJヴィレッジスタジアム

日本中で復興が進む中、Jヴィレッジは遅れていた福島復興のシンボルとして再始動しました。2019年に全面再開。2020年は、東京オリンピックの聖火ランナースタート地点となるはずでした。Jヴィレッジの施設面積は東京ドーム約10個分となる49ha。観客席付スタジアムを含め天然芝ピッチ8面、人工芝ピッチ2面、全天候型サッカー練習場、雨天練習場、ホテル(総客室数200)、フィットネスジム、アリーナ、プール等を備えています。これだけの規模のスポーツ施設は、日本中を見渡してもJヴィレッジしかありません。

筆者は、東日本大震災の前にJヴィレッジを何度か訪ねています。Jヴィレッジに女子サッカーの理想郷があったと思っています。美しい芝生のピッチを目指して、たくさんのプレーヤーが集まりました。Jヴィレッジ竣工の7年後の2004年にスタート(YKK東北女子サッカー部フラッパーズからの移管)した地元チーム・東京電力女子サッカー部マリーゼの応援に多くの地域住民が駆けつけました。2010プレナスなでしこリーグの平均観客数は912人ですが東京電力女子サッカー部マリーゼの平均観客数は1,644人(リーグ2位)でした。

現在のJヴィレッジ 提供:一般社団法人東北観光推進機構

今回は大仁邦彌さん(日本サッカー協会最高顧問)のインタビューをお届けします。日本サッカー協会会長を2012年から2016年まで務められたことが記憶に新しい大仁邦彌さんですが2003年から2009年まで ()日本フットボールヴィレッジの代表取締役副社長を務められました。そして2002年から2006年には日本サッカー協会女子委員会委員長も務められ、Jヴィレッジと女子サッカーに深い関わりをお持ちの方です。

2007年 Jヴィレッジオープン10周年記念アニバーサリーサッカーフェスタにて 左前列が大仁邦彌さん

快適だったJヴィレッジでの生活

—Jヴィレッジが竣工したときは、どのようなお気持ちでしたか?

大仁–世界に誇れるトレーニングセンターができて、本当に日本サッカーにとって凄いことだなあ、できて良かったなという気持ちでしたね。

—あれだけの面数の芝生のグラウンド、5,000人収容のスタジアムまで完成して、皆さん驚きましたね。

大仁–それと一流ホテル並みのホテルと、診療所も併設していましたから完璧なトレーニングセンターができたなっていう感激がありましたね。「こんなの作ってしまって良いのかな」「こんな凄いものを上手く、ちゃんと使えるかな」と思うくらい素晴らしい施設でした(笑)。

日本代表等のトレーニングキャンプの会場、東京電力女子サッカー部マリーゼのホームスタジアムになったことはもちろんなのですが、私はJヴィレッジを通して、日本サッカー協会が地域の方々と交流することが増えたのではないかと思っていました。いかがでしたか?

大仁–その意味は大きかったと思います。地域の方々の喜びに繋がっていたと思います。トップクラスのサッカーだけではなく、Jヴィレッジのサッカースクールに地元の方々が参加してくださる、あるいはJヴィレッジ主催の子どもの大会とか女子の大会とか、日本全国から多くの方々が来られて交流が生まれる。地元の皆さんとの関係は良くなっていきました。

—私が覚えているのは東京電力女子サッカー部マリーゼの試合の前座で、JリーグのOBと地元の高校生のチームが対戦する試合があったことです。大仁さんもセレモニーにいらっしゃいました。福島県知事もいらっしゃっていました。そのときに地元の方がスタンドでとても喜ばれていたことをよく覚えています。何か象徴的なシーンでした。

大仁–そうですね本当に地元の方に応援してもらえるよう施設になっていたと思いますね。Jヴィレッジには働いている方が100人近くおられましたし、指導者や指導者も近くに住んでおられて、地元とサッカーの繋がりが良い方向に向かっていたと思います。

あの規模ですから100人クラスの雇用が生まれていたのですね。

大仁–そうです。雇用は、地元に非常に大きかったと思いますね。

東京電力女子サッカー部マリーゼのホームゲーム

私は、Jヴィレッジは地域のレジャーの中心になっていたと思います。週末になるとどこに行くという観光地があるわけじゃないので「とりあえずサッカーを見に行く」みたいな生活があったのではないか、という感じがするのですが、いかがでしょうか?

大仁–サッカーだけではなく、レストランは地元の方に毎日のようにご利用いただいていたり、あるいは、あの辺の散歩コースにJヴィレッジが入っていたりとか、いろいろな面から地元との交流は深まっていっていったと思います。周辺には幹線道路沿いのドライブイン(ファミレス)のようなレストランしか大型の飲食施設がなかったですから「あの西シェフ(日本代表専属シェフの西芳照氏)のレストラン」ができて、皆さん喜んでおられましたね。一般の方にもご利用いただける、プール、スポーツクラブも開設していましたので、多くの方にご利用いただいていました。

—大仁さんが、Jヴィレッジの方に足を運ぶ機会は、どのぐらいの頻度だったのでしょうか?

大仁–2003年から、Jヴィレッジの近くに家を借りて、ほぼ、向こうに常駐していました。快適でした。日本サッカー協会の仕事があるときに東京に出てきて仕事をする形になっていました。

—それは驚きました。どのように快適だったのですか?

大仁–生活が快適でした。特に冬場のJヴィレッジから空を見たら、もう本当に星が凄くて「冬場の星を見る会をやったらどうかな?」とJヴィレッジの職員に言うくらいでしたね。それから、近くに温泉もあって500円くらいで入れましたし、魚は、もう非常に美味しいですからね。休みのときにはゴルフに行ったりしましたし、近くに焼肉食べ放題とかもありましたね。

—地域の皆さんとの関係はいかがでしたか?

大仁–とにかくですね、雑草を抜いてくれたり、清掃をしてくれたり、親切にしてくださいました。私が一番びっくりしたのは、掃除の女性の方が夕方に「大仁さん、これ食べますか?」って、紙袋に何かを包んで持ってきてくださったときです。「何ですか?」って中を見たらウサギでした(笑)。そんなことで、凄く皆さんに歓迎していただいたというか親切にしていただいた記憶がありますね。

ドリブル突破する東京電力女子サッカー部マリーゼの丸山桂里奈選手

本当に地元に育てていただいた東京電力女子サッカー部マリーゼ

大仁さんからご覧になられた、東京電力女子サッカー部マリーゼはいかがでしたか?

大仁–Jヴィレッジには、トレーニングキャップで、いろいろなチームが来て練習をしたり試合をしたりしていたのですが、地元の人たちにとっては「自分たちのチーム」じゃなかったですから、東京電力女子サッカー部マリーゼは、やっとできた「自分たちのチーム」でした。

—企業のチームでありますが、何もなかったところに地元のチームができて、凄いサッカー好きというわけでなくても「週末にとりあえずやっているから行こうか」という気持ちで、皆さんがスタジアムに行く習慣になっていったのが素晴らしいと思っていました。

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