WE Love 女子サッカーマガジン

清水出身 女子サッカーのレジェンド 半田悦子監督が挑む埼玉でのWEリーグ1年目

2021年4月からWEリーグのプレシーズンマッチが始まります。大会形式ではありませんが、プロ化した各クラブが、各地でチームをお披露目します。今回はちふれASエルフェン埼玉の半田悦子監督のインタビュー記事です。ちふれASエルフェン埼玉は狭山市を発祥の地とし、チーム活動拠点は飯能市、ホームタウンを狭山市、飯能市、日高市としています。埼玉県には、浦和レッドダイヤモンズレディース、大宮アルディージャVENTUS、そして、ちふれASエルフェン埼玉のつのWEリーグクラブがあります。

筆者は3つの意味で半田悦子さんの選択に驚きました。プレナスなでしこリーグをはじめとする女子サッカートップレベルの最前線から離れていた半田悦子さんがWEリーグクラブの監督を次の仕事に選択されたこと。そして、働く場所に埼玉県を選択されたこと。なぜなら、半田悦子さんは、長く清水でプレーし、清水の女子サッカー黄金期を支えてきた静岡県のレジェンドだったからです。これまで長く、静岡県静岡市の常葉大学附属橘中学校・高等学校のサッカー部で指導されてこられました。そしてインタビュー取材の中で驚いたのは、中国で開催された大会でグループステージを敗退した際の選択です。帰国後、再び中国に有志で戻り、ノックアウトステージの試合を観戦したというのです。半田悦子さんら当時の女子サッカー選手が、そこまでアツく、女子サッカーに情熱を傾けていたとは知りませんでした。

さて、筆者は取材の準備をする際、初めてスタジアムで見た女子サッカーの試合に半田悦子監督が選手として出場されていたことを思い出しました。16歳の澤穂希さんも「ショートカットの突貫小僧」のような雰囲気で出場していた試合、1994年9月27日に開催されたキリンチャレンジカップです。直後に広島で開催されるアジア大会の壮行試合でした。半田悦子さんは、当時の日本女子代表のエース。筆者の印象は「国立競技場という大きな舞台でプレーされている姿は、男女で、それほど違いがないな」ということでした。

半田悦子監督

女子サッカーの発展を最前線で体験してきた

半田私としては、まだ、女子サッカーが発展途上だという印象でした。今思うと、男子と同じようなサッカーをできていたわけではなく、まだまだだったと思います。でもそれまで別々で強化されていた「男子の代表のサッカー」「女子の代表のサッカー」が、あの試合で初めて、同日に同じスタジアムで試合をしました。男子(A代表)の前座で日本女子代表がプレーしたのです。キリンチャレンジカップだったので、日本女子代表が、レセプションで男子選手と一緒に日本代表として扱いを受けた(初めての)試合です。レセプションでは「カズさんがいる」「長谷川さんがいる」と男子サッカーとの接点が生まれ、初めて同じサッカーの土俵に乗せてもらえた気がしました。

女子も「一つのサッカーの仲間」として、踏み出した意味が大きい試合でしたね。

半田私がサッカーを始めたのは、本当に日本の女子サッカーのスタート時期だったので、日本の女子サッカーが変化しつつある中でプレーすることができました。その一つの大きな試合でした。

清水でサッカーを始め、一度辞めたのにもかかわらず日本女子代表入り

半田清水に生まれ育ったので、身の回りにサッカーがありました。小学校3年生からサッカーを始めました。当時、全国的には女子サッカーの時代は到来してなかったはずですが、清水市(現・静岡県清水区)で小学生も女子だけのリーグ戦を行っていました。だから、清水では、女子サッカーは特別ではなくて普通にありました。でも中学生になるとプレーするチームがなく、困っているときに杉山勝四郎監督(現・清水第八プレアデス顧問)が清水第八スポーツクラブ(現・清水第八プレアデス)を立ち上げてくださいました。私の一つの上に本田美登里さん(現・静岡SSUアスレジーナ監督)がいます。実は、私は中学校で陸上部に入ってしまい、一度、サッカーを辞めています。でも、中学校3年生で大会を終えて陸上部を引退したら、スポーツをやることができなくなってしまい、本田美登里さん、木岡二葉さん(第1回、第2回FIFA女子ワールドカップ出場、アトランタオリンピック出場、スウェーデンのプロリーグでもプレー)らのいる清水第八スポーツクラブで、中学校卒業までの間に、もう一度サッカーをやり始めました。そのとき、出場した第2回全日本女子サッカー選手権大会(現・皇后杯 JFA全日本女子サッカー選手権大会)に優勝しました。そして、翌年に初めて結成された日本女子代表に招集されました。あのとき全日本女子サッカー選手権大会に出場しなければ、今の私にはなっていなかった、不思議なタイミングでした。

香港で大観衆を体験 サッカーをやる決意へ

半田初の日本女子代表は、私と木岡二葉さん、金田美保さんが高校一年生で最年少でした。AFC女子アジアカップの遠征で香港に行きました。スタジアムには凄い人数の観客がいました。シュートを打つと「うぉー!」という歓声が上がりました。「サッカー凄いな」と思い、陸上競技を辞めてしまいましました(笑)。あのまま陸上部だったら、その後は体育の先生だったかな……(笑)。

清水第八スポーツクラブは、第2回全日本女子サッカー選手権で優勝し7連覇します。それくらい強かったですし、日本女子代表選手が多かったです。そういう経験をできたのが、私のその後に向けた大きなスタートになっていたと思います。私は、16年間、日本女子代表にいました。初めは、女子サッカーにはFIFA女子ワールドカップもオリンピックもアジア大会もなく、ただ頑張っているだけだったのですが、徐々に正式種目になったり大会が出来たりして、プレーしながら新たな目標が目の前に生まれてくる時代でした。それが31歳で出場したアトランタオリンピック(オリンピックで女子サッカーが初めて正式種目になった大会)まで続きました。

目の前に目標が生まれてくるのは楽しかったのでは?

半田そうです。でも、初めは解らなかったのです……知らないので「女子のワールドカップ(世界選手権)ってどんなのだろうね?」とか会話していました。大会の想像がつかなかったです。

初めて開催されたFIFA女子ワールドカップ1991中国大会はグループステージで敗退して帰国しました。ただ、みんな、初めての大会だから試合を見たいと思っていました。だから、一旦は帰国して、有志だけで、もう一度、中国に渡って試合を見に行きました。世界のレベルの高さに驚きましたが、絶対に強くなりたいという気持ちを持ちました。

FIFA女子ワールドカップ1991中国大会は、かなりのお客さんが入っていたと、現地に見に行った友人から聞きましたが、いかがでしたか?

半田もう、凄かったです。その前に訪問した香港もそうですが、その当時の中国圏では、女子サッカーのスタジアムに観客がいっぱい入っていたのです。日本の環境とは、あまりにも違って刺激的でした。女子サッカーが生活の一部や娯楽になっている感じがしました。そのとき、日本女子代表は強くなかったので、普段は体感できないことをレベルの高い大会でできて、まだまだやれることがあるという経験をできました。「女子サッカーって凄いんだ」と思いました。

半田悦子監督の指示に真剣な表情で耳を傾ける選手たち

1989年Lリーグ開幕 初代のリーグMVP

半田Lリーグ(現・プレナスなでしこリーグ)は今までなかった大会です。それまでは年3回くらいのノックアウト方式の大会はあったけれど、毎週のようにチームで試合をするという経験がありませんでした。これからどうなっていくのだろうという期待があったことを覚えていますね。

スタートはチーム。第1回のリーグ戦で、私の所属する清水FCレディースが優勝しました。バブル経済の時期だったので、海外のトップスターが日本に来てプレーしていました。日本女子代表選手だけではなく、Lリーグの選手全員が、一流選手との対戦を体感できたことで、日本の女子サッカー全体のレベルがとても大きく上がったと思います。そのおかげで、FIFA女子ワールドカップ予選も、他の大会の成績も向上していきました。ですから、Lリーグをスタートした意義は、今も、私の心の奥に強く残っています。とても価値あるリーグでした。

今年は、WEリーグがスタートします。初めてのプロリーグが始まり、どのようになっていくのだろう? 自分に何をできるのだろうか? Lリーグのスタートの頃を思い出して考えました。

—WEリーグも、能力の高い外国籍選手が加入できるように「外国籍選手支援制度」を導入します。楽しみですね。

半田これは絶対に楽しみです。私たちのチームメイトだった周台英(台湾)はアジアNO. 1プレーヤーでした。加入前に日本女子代表で対戦していて、めちゃくちゃ上手いと知っていました。Lリーグが始まると同じチームでプレーして、どのようなプレーをするかを知ることができました。それからは、日本女子代表で台湾(チャイニーズタイペイ女子代表)と戦うときに(萎縮せずに)チャレンジできるようになりました。

開幕戦の対戦相手は読売ベレーザ(現・日テレ・東京ヴェルディベレーザ)でした。清水の先輩に当たる本田美登里さんが読売ベレーザにいました。意識しましたか。

半田子どもの頃から一緒にサッカーをやっていた関係です。お互いに頑張ろうと声を掛け合いました。これまでやってきたことを出していかなきゃという想いはありましたね。開幕戦は風船を飛ばしたりして、華やかな雰囲気のスタートでしたから、緊張感を持ってやりましたよ。

Lリーグが始まる前の日本女子代表は、大会前に集まって合宿をして試合に臨むという一年に一回くらいの活動しかありませんでした。だから、選手同士も、それほど会う機会がありませんでした。Lリーグはリーグ戦ですし、1会場で3試合を組むことがありました。他チームの選手と会って話をしたり、お互いの試合を見たりすることが増えました。

半田さんの一年目はアシスト王、ベストイレブン、最優秀選手、優勝。タイトル総なめで満足なシーズンだったのでは?

半田いや、周台英のおかげですね(笑)。第1回のリーグ戦を優勝できたのは満足です。そして、Lリーグが始まったことで選手の環境が良くなっていきました。そのおかげで、日本女子代表の成績が良くなっていき、ますますサッカーに集中できるようになっていきました。

プレーされている選手が良い環境を勝ち取っていった感覚はありますか?

半田静岡の皆さんには、大変お世話になりました。サポートしてくださった鈴与(現・清水エスパルスの筆頭株主)では、私は社員ですが仕事をしないでサッカーだけをできる環境にしていただきました。今から25年以上も前のことです。こうした応援をしてくださる方々のおかげで、サッカーができました。皆さんが女子サッカーを守ってくださりました。

ちふれ化粧品飯能工場の敷地内にある専用グラウンド

S級コーチライセンスを女性で二番目に

半田サッカーを引退した後に、生き方を模索していました。調理師免許を取得したりもしました。でも、引退した翌年に国体の正式種目に女子サッカーが入りました。私は静岡県の国体チームの選手になりました。どこかのチームに所属しないと選手になれなかったので清水FC女子に所属しました。国体終了後は、コーチとして清水FC女子の指導をしながら、そんな生活を5年間くらいやっていました。

サッカーを教える仕事をしたくて、長澤和明さん(1993年までジュビロ磐田監督の後、1995年〜1996年は鈴与清水FCラブリーレディース監督)に御殿場のサッカー教室を紹介していただきました。そこからサッカーの指導で生活するようになりました。そこでトレセンの指導をされていた吉田弘さん(元日本女子代表コーチ、FIFA U−20 女子ワールドカップ2012日本大会監督、2015年はASエルフェン埼玉監督)と知り合い、紹介していただき、常葉大学附属橘中学校の女子サッカー部立ち上げから7年間を監督として過ごしました。7年間もやると指導者として悩むことがたくさんありました。

(残り 1984文字/全文: 7222文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

日本サッカーの全てがここに。【新登場】タグマ!サッカーパック

会員の方は、ログインしてください。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ