WE Love 女子サッカーマガジン

水沼貴史さん 「女子サッカー選手は、目の前の流れに乗ってほしい」 Jリーグ開幕の経験を踏まえてWEリーグを語る

4月からWEリーグのプレシーズンマッチが始まります。また一つ、夢の舞台が近づいてきました。思い起こせば1993年にJリーグが開幕したときは、同じように半年前に1992年秋にJリーグヤマザキナビスコカップが開催され大人気。評判が評判を呼び込んで。ここから歴史に残るJリーグブームがスタートしました。

WEリーグも、夢にまで見た開幕まで半年のタイミングですが、WEリーグの選手からプロ化への不安を漏らす声が聞かれます。そのことを水沼貴史さんにお伝えすると「WEリーグというプロの舞台でサッカーをできる喜びを、選手には純粋に感じてほしいと思います。それが一番ピュアな気持ちじゃないかな。」とストレートな意見が返ってきました。

水沼貴史さんは、日本のサッカーがプロ化の兆しすらなかった1983年に日産自動車サッカー部(現在の横浜F・マリノス)入り。日本代表としてオリンピック予選、ワールドカップ予選を戦いました。1993年5月15日のJリーグ開幕戦には横浜マリノス(当時)の一員として先発メンバー入り。ヴェルディ川崎(当時)を逆転するゴールを演出するドリブルシュートは、その後、何度も名シーンとして動画で再生されています。あのとき、水沼貴史さんは、プロ化に、どのような気持ちで臨んだのか……今回は、水沼貴史さんの、WEリーグの成功を願う気持ちが伝わる、情熱的なインタビュー記事です。

WEリーグというプロの舞台でサッカーをできる喜びを感じてほしい

水沼サッカーは11人でやるし(1993年5月15日のJリーグ開幕戦は)特別な試合でもある。最初の11人に選ばれたいと思いました。純粋にサッカー選手としてピッチに立ちたいという気持ちだけでした。「プロのリーグに足を踏み入れる」とか全然考えていない。ただ、今までやってきたことが、どれだけ社会に認知されるか、価値について、ずっと思ってやっていました。あの頃は「これからプロリーグが始まってどうなるのだろう」という考えよりも、ピッチに立つことに集中していた気がします。

なぜサッカーをやってきたのかというと「好きだから」。プロというものへの憧れはありました。でも、僕が小さい頃には日本にプロサッカーはなかった。海外(のプロ)も視野になかった。プロになりたいという気持ちには、なかなか至りませんでした。日産自動車に入社して2年目にスペシャル・ライセンス・プレーヤー(Jリーグが始まる以前のアマチュアリーグ時代の実質的なプロ待遇選手)となり、僕はサッカーで報酬を得ていく決断をしました。「自分が好きなことを職業にできる」と単純に考えたからです。小さい頃からやってきたサッカーでプロになれる……WEリーグの選手たちも「プロができた」「プロになれる」という気持ちを忘れてほしくないですね。目の前に「思いっきりサッカーをできるチャンス」があったら飛び込んでほしいです。

WEリーグは、たくさんの周りの大人がJリーグのノウハウも活かして、女子サッカー選手たちに環境を作ってくれたものだと思います。熱意を持って舞台を作ってくれた。僕らの時代のJリーグもそれは一緒。スポンサー企業も含めていろいろな人たちが協力してくれて、ようやく新しい舞台ができた。だから、その舞台に立ちたいという気持ちを、僕は純粋に持てたのです。

Jリーグ開幕時にスポーツ新聞合同で発行した号外

「やっぱりプロリーグは凄い」と言ってもらいたい

—プレ大会1992年のJリーグヤマザキナビスコカップの熱狂を選手はどのように受け止めていましたか?

水沼プロチームとして初めて戦った大会でした。それぞれのクラブが熱いものをピッチで繰り広げた。見に来てくれた人たちも「自分はこのチームを応援するサポーターだ」みたいな決意をして、その熱がピッチの選手に伝わってきました。だから、選手はそれに応えたい「やっぱりプロリーグは凄い」と言ってもらいたいピュアな気持ちでプレーしました。サッカー小僧だった頃に憧れていたような舞台が出来たから、それが楽しみで……想いはそこだけだった気がするな。でも、想いは選手だけじゃないですよ、きっと。それまでサッカーファンはマニアだけの世界だったから「これからは、たくさんの人に、サッカーの魅力を伝えたい」という想いが、サポーターになったファンには相当に強くあったと思いますね。選手とサポーターの熱気が一緒になって、凄いエネルギーになったんじゃないかな。

—当時、急に取材が増えましたが、選手は取材に積極的に対応されたのですか?

水沼「成功したい」という想いがあり、当然、自分たちから積極的に発信しなければならないと思っていました。僕は取材を好きでした。サッカー専門誌以外の取材もありましたね。いろいろなメディアがJリーグに興味を持ってくださりました。ファッション誌の取材も誰かに来ていたかな。サッカー以外にも、ファッション、サポーター、ユニフォームやグッズも記事や番組で取り上げられてサッカーが文化として広がっていきました。「サッカー選手はおしゃれでかっこいい」という記事も多かったですね。選手が、そういう取り上げられ方をして、たくさんの人に喜んでもらえる……とにかく、積極的に発信していました。

自分を「プロサッカー選手」と書けるようになったとき、社会的な認知を得た気持ちに

—当時、他のクラブの選手との連携は活発でしたか? プロ化に向けて変化を会話から感じましたか?

水沼ライバルなので、積極的に連絡をとっていたわけではありません。でも、一番覚えているのは、Jリーグの開幕戦の試合前にアップが終わったとき、対戦相手のヴェルディ川崎(当時)の選手と話をして泣いたこと。その日を待ち望んでいたからね。プロ化の直前よりも1985年にプロ化の話が出てきた頃、日本代表が集まったときに、一番、話をしていた気がします。

今までにはなかった移籍が(Jリーグ開幕の前に)活発にありました。そういうところから、自分たちのチームの中で「あ、プロになっていくんだ」と感じたかな。僕にも、実際に(移籍の)話はあったから。

—選手はプロ化で、何が変わりましたか?

水沼自分の責任ですね。自分がいかに「プロの選手になり切れるか」です。サッカーが楽しくて、そこでプレーしたいというピュアな気持ちから、自分たちが成功させる自覚を持って次世代の子供たちに夢を与える、試合を見て感動してもらう気持ちになっていきました。巧いだけではプロはダメだと思います。ファン・サポーターの心を動かさないとダメです。心を動かせるプレーをできるかどうか……意識が変わっていきましたね。

「仕事は何ですか?」と記入欄があったら「プロサッカー選手」と書けるか書けないかは大きな違いです。「サッカーのライセンスプレーヤー」と書いても、相手は何だかわからないじゃないですか。「プロサッカー選手」と書けば、それが仕事だと理解してもらえる。当時の「サッカーのライセンスプレーヤー」と「プロサッカー選手」は、全然違いました。「プロサッカー選手」と書けるようになったとき、僕には社会的な認知を得た気持ちがあったと思います。書けるようになったのは1993年にJリーグが始まってからですね。それまで僕は「会社員」と書いていました。

「プロの選手になり切れるか」が大切

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