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【無料】クラブ史上未曽有の危機にある名古屋。理論派指揮官と救世主・闘莉王はチームを救えるのか?<前編>

最終節まで残留を争うというクラブ史上未曽有の危機にある名古屋ですが、今季のチームの歩みを説明するのは簡単なことではありません。小倉隆史GM兼監督という大きな神輿を担ぎ上げ、「革新」をテーマにクラブの新たな一歩を踏み出したのが2016年というシーズンだったわけですが、ポジティブな意味ではなくネガティブな意味での今までにない1年となってしまいました。

「5人目まで連動するサッカー」をキーワードに始まった小倉隆史前監督(休養中)の監督キャリアですが、残念ながら結果として机上の空論に終わってしまったところがあります。その“敗因”にはやはり初の監督経験という部分での、様々な誤算がありました。恐らくは小倉前監督の頭の中には多くの理論が詰め込まれていたのですが、それを選手に伝える話術と適した練習メニューを持ち合わせていなかった印象です。参謀として迎え入れていたステンリー・ブラードヘッドコーチや島岡健太コーチも尽力しましたが、残念ながら小倉戦術の浸透には至りませんでした。

また、選手起用や采配の面でも拙さがあったのは否めません。振り返ってみれば小倉前監督は「はめ込み型」の指揮官で、4-2-3-1のフォーメーションのポジションごとに求める役割が決まっていました。中でも顕著だったのがサイドの2ポジションとトップ下で、サイドバックには高い位置を取って攻撃の起点となること、サイドハーフにはゴールへ向かう動き出しの質、そしてトップ下には積極的にDFライン裏へ飛び出していく動きが求められていました。しかし、その動きに適した選手がいない時にもその動きを求めるため、例えば矢田旭は本来の自分らしさを発揮することができず、途中加入のハ デソンもプレースタイルにはないスプリントを繰り返した結果、加入わずか3試合で肉離れを起こして長期離脱してしまいました。戦術の一貫性自体はあったのですが、その反面で柔軟性には欠けるところが、前体制のサッカーにはありました。

そうした中で選手たちの間には「何をやればいいのかわからない」という感覚が大きくなっていき、18試合未勝利という泥沼のような4ヵ月を過ごすことになりました。もちろん小倉前監督のみの責任ではありません。プロサッカー選手として、目の前の相手と戦うことができなかった選手たちにも責任はありますが、チームが降格圏に落ち込み、勝てない日々が続けばクラブも手を打つしかありません。それでも残り8試合という本当のギリギリのタイミングになってようやく監督を交代したのは、自ら担ぎ上げた小倉GM兼監督体制への信頼の現れだったともいえます。

後編へ続く

今井雄一朗(いまい ゆういちろう)
1979年生まれ。2002年に「Bi−Weeklyぴあ中部版」スポーツ担当として記者生活をスタート。同年には名古屋グランパスのサポーターズマガジン「月刊グラン」でもインタビュー連載を始め、取材の基点を名古屋の取材に定める。以降、「ぴあ」ではスポーツ全般を取材し、ライターとしては名古屋を追いかける毎日。09年からJリーグ公認ファンサイト「J’sGOAL」の名古屋担当ライターに。12年、13年の名古屋オフィシャルイヤーブックの制作も担当。2015年1月から赤鯱新報をスタート。

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