「川崎フットボールアディクト」

【麻生レポート】積み重ねてきた日々と、被災地の自立への歩み

■積み重ねてきた月日
サインを待つ高校生二人から差し出されたボード見て、中村憲剛が「大きくなったね(笑)」と驚きの声を上げていた。そんなやり取りから、フロンターレが陸前高田で行ってきたサッカー教室の参加者なのだと想像できた。

高田FCから高田一中、大船渡高校と同じ進路を歩んできた二人が、憲剛と初めて会った日のことを振り返ってくれた。

「すごく嬉しかったです。プロの選手に会うのが初めてでしたし、テレビで見ていた選手が居たので感動しました。その選手のみなさんにサッカーを教えてもらえて、もっと頑張ろうと思いました」と話すのは菅野朔太郎くん。憲剛の右隣りで微笑む少年だ。

一方、憲剛の左隣りに立つ酒井宏輔くんは「そのころのぼくは選手のことをあまり知らなかったんですが、でも憲剛さんのことだけは知ってました。他の選手とは違うものを感じました」と当時のことを振り返る。


高校2年生になった二人が憲剛とともに写真撮影してもらったのは小学校6年の時のこと。震災から半年が経過した2011年9月18日。フロンターレが初めて陸前高田市を訪問し、サッカー教室を行った時のことだった。


当時はまだ津波に由来する瓦礫の処理が進んでおらず、津波に流されてぐちゃぐちゃに壊れた車が集積所に集められ無残な姿を晒すなどしていた。陸前高田の町並みが存在していた場所は、凄まじい破壊の痕跡をまだとどめていて、その悲惨さに選手たちは一様にショックを受けていた。

そんな選手たちと笑顔で触れ合ったのが、菅野くんや酒井くんたちサッカー少年たちだった。被災した少年たちが、笑顔でサッカーボールを追いかける。その姿を見て、そしてふれあうことで「逆にパワーを貰った」のだと、選手たちは後に話していた。


無邪気に笑う子どもたちの姿に、生命力の強さというようなものを感じていたぼくは、5年の時を経て出会ったその時の少年たちから改めて、プロサッカー選手たちが持つチカラを教えられた。元気な姿で選手たちにチカラを与えていた少年たちはサッカーを教えてくれる現役のプロサッカー選手たちにチカラをもらっていた。そうしてポジティブにお互いを高め合う関係ができていた。

■自立への過程
津波で実家などの家屋が流失したという菅野くんはまさに被災者だった。彼に代表される被災者のみなさんが、その傷から立ち直るのに5年という年月はまだまだ不十分なのかもしれない。ただ被災地に、被害者の立場であり続けることを拒否しようとする動きが出てきていたのも事実だった。すべての財産を無くし、生活を立て直す術を失っていた被災者のみなさんが、自らの手で自立し始めている。その第一歩として認識されたのが、2015年11月22日に行われた陸前高田ランドだった。仙台を相手にしたリーグ戦最終戦のその日に開催されたこのイベントは、陸前高田で生産された様々な物産品を展示即売するという催し物だった。

100%の善意に支えられ、寄付金が集められてきた中、「被災者」という立場のままでいいはずがないという声は日に日に被災地に充満していたのだという。被災者の立場から脱するには経済的な自立が必要となる。その手段として、被災地で作られた物産品の販売がある。価値あるものに値段を付け、それを購入した消費者がそれを喜ぶ。そして経済的対価を受け取った生産者は被災者から自立に向けて歩みをすすめる。そうしたサイクルを等々力に持ち込んだ2015年11月の陸前高田ランドは、そういう意味で大きなイベントとなった。

この陸前高田ランドを皮切りに、イベントが行われていく。それが2016年4月10日の鳥栖戦時に開催された陸前高田ランド・春であり、今回行われた高田スマイルフェス2016(2016年7月3日)だった。

「我々が促した部分もありますが、それに対して陸前高田市の人たちが考えて市をあげてこのフェスを作り上げてきた。それがすごい」と舌を巻くのはフロンターレで運営を担当する羽田剛氏だ。「誰もが通常業務を抱える中、大変な作業だったと思います。我々も月一程度で現地を訪れて打ち合わせを重ね、時には感情的な対立を経験しました。でもそれがあって今がありますし、すごいことだと思います」と開催の意義を口にする。

現地で陸前高田の人たちの熱意を肌で感じたのが、ファイフロの木村朱美さんだった。

「昨日(7月2日)、私たちで会場の準備を終わらせる予定だったんですが、それが雨の影響で順延になって。結局準備は現地の方が今日(7月3日)の早朝に120人ほど集まって済ませてくれたんです」


羽田氏や木村さんのこうした言葉からわかるのは、陸前高田の人たちが当事者としてこのフェスに関わり、自分たちで成功させようと試みたその意識の高さだ。結果的にフェスは、2773人の観客を集め多くの笑顔を生み出した。


■今後の展開
フェスを訪れ、当事者のひとりとして関わった視点から「すごいことだと思います。これだけのことはなかなかできない」と絶賛するのが、ベガルタ仙台で運営・広報部長を務める辻上裕章氏。現職に2015年12月に就いたという辻上氏は、「クラブ同士がタイアップしてこれだけ大きなイベントとしてやるケースはあまりない。しかも震災から5年もたってまだ継続しているし、むしろ5年目の方が一番大きいようなイベントになった」ことに驚き「被災地(仙台)のクラブとしてやれることをやって行くこと」の大事さを改めて痛感したと話す。

この辻上氏の言葉からも明らかなようにクラブとしてベガルタ仙台がこのフェスから受けたインパクトは非常に大きなものになったはず。だからこそ開催当事者として主体的に動いた陸前高田市へのポジティブな影響はさらに大きいものになったはずだ。なにしろ市民の10%を超える観客を集めるイベントを開催できたのだ。彼ら住民に大きな自信を付けたのは間違いない。ここで掴んだ自信を元に、今後どんな活動が行われるのか楽しみにしたいと思う。

最後に、今回のフェスに参加し、サッカークラブの持つポテンシャルを再認識した辻上氏のこんな言葉を紹介しておこうと思う。

「我々も単体で宮城県内で復興支援を行うことがあるのですが、1チームよりは2チームで回ったほうが相乗効果もありますし、またこれだけの人が喜んでくれるんだということも感じまして、来年以降フロンターレさんに宮城でのうちの復興支援活動に協力してもらえないか。双方向性の協力体制ができないか、ということを考えるようになりました」


これは余談になるが、冒頭で紹介した二人の高校生はそれぞれにサッカーに携わる夢を持っていた。右に立つ菅野朔太郎くんがユニフォームなどのデザインの道を。左の酒井宏輔くんがスパイクのカッコよさに憧れ、スパイクを作る仕事に就きたいと夢を語っていた。

(取材・文・写真/江藤高志)

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