「川崎フットボールアディクト」

【#オフログ】(書評)救世主監督 片野坂知宏「ひぐらしスタイルで綴られる片野坂知宏監督の軌跡」

正直な話、この本に泣かされるとは思っていなかった。

というのも、全編を通して貫かれる軽妙なレトリックとネットスラングをちりばめたひぐらしスタイルの文章はシリアスモードとは程遠く、またその文体とは裏腹に結構まじめに大分トリニータを率いる片野坂知宏監督の戦術が語られるからだ。

ガチ戦術と、エッセイのいいとこ取りの本という言い方ができるのかもしれないが、それにしても涙に振れることはないと油断していた。

そんな本書を特徴づけるひぐらしスタイルの表現の一例は次のようなもの。

p123
「ヤクザが無言のまま刃物で刺し合っているような凄惨さ」

これはロティーナ監督率いる東京Vと片野坂知宏監督率いる大分トリニータの対戦を描写した段落の冒頭の一文。サッカーの世界にこの文体を持ち込めるという意味でひぐらしひなつは稀有な才能を持つ作家なのは間違いない。

ただ、読みやすいひぐらしスタイルの文章と、サッカーの局面を切り取る表現のせめぎあいは簡単ではない。その試合を見ていない人や登場チームに詳しくない読者にとっては、どうしても迷子になってしまう局面が出て来ざるを得ない。それは致し方なく、少しばかり集中して読む必要があるという意味で脳力を使う一冊と言える。

敢えて「この本は読みにくい」と言ってしまったときに、その理由を「重厚さ」と表現するとして、そう感じてしまうのは、実は内容がかなりストロングな戦術解説本になっているからかもしれない。そういう意味で戦術描写を補完するイラストがあれば、もっと読みやすくなっていたのかもしれない。

もちろん「カタノサッカー」を継続して見続けてきたサポーターならば即座に思い浮かべられる描写の数々のはずで、ますは大分サポーターに手にとってもらいたい一冊と言える。

さらには今季のJ1で旋風を巻き起こしてきた片野坂知宏という、全身全霊でサッカーと向き合う監督の生き様を知るという意味でも外せない一冊と言えよう。

すんなり入ってくる人間物語と、脳力を問われる試合の描写の理解度の落差が、読者に一定の参入障壁を与えている感はあるのだが、その困難さの先に、ご褒美のような泣ける描写があるのがこの本のハイライトだ。興味を持ちつつも、まだ手にとっていない方はぜひご一読を。

救世主監督 片野坂知宏(ひぐらしひなつ著)

なおこれは余談だが、泣かされたあとにふと、これと似た構造の本として、村上春樹のアンダーグラウンドが頭に浮かんだ。

地下鉄サリン事件の被害者へのインタビューをまとめたこの大著は、読みすすめるのが非常に苦しい一冊だった。ただ、その中に唯一収められた福音のような一節を読んで、この救いにたどり着くための布石として、その他の証言者の言葉があるのだ、と発刊直後の読了後に感じたことを思い出した。

この本にそこまでの重さはないのだが、それにしても意外な展開に驚かされた一冊だった。

※献本していただきました。ありがとうございました。

(文/江藤高志)

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