中野吉之伴フッスバルラボ

レーフ監督が決断した選手では、なぜ勝てなかったのか。技術や戦術だけでは語り切れない理由にサッカーの奥深さがある

 ▼ただ2014年時と、ロシアのワールドカップとでは前提条件が違う。

今大会のクロアチアに代表されるように、ギリギリの戦いを勝ち抜くには、体を動かすための魂が宿っていなければならない。誰に何を言われようと、どんな展開になろうと、どれだけの苦境に陥ろうと、「それがどうした。俺たちは優勝したいんだ」という爆発的な思いを持つためには、内内から湧き上がってくるモチベーションがなければならない。

だが、タイトルという目的を成し遂げた後にどうしても一度その思いはリセットされてしまう。連覇を成し遂げなくてもいいと思う選手などいないし、試合を前にすれば誰だって勝ちたい。でも、その先にあるもっと大きな勝利のために準備期間からすべてを捧げることができるかどうかはまた別のテーマになる。

王者になるのはとても大変なことだ。だが、タイトルを防衛すること、連覇を果たすことはそれ以上に大変なことだ。

成し遂げていない人が成し遂げようとするものに向けて気持ちを高めるのは、自然のモチベーションだ。だが、成し得た人が成し得続けようとするには、様々な付加価値と付加ストレスと付加要因が必要になる。それだけに、今大会では前大会以上の周到な準備が必要だったし、より厳しいギリギリのポジション争いもなければならないものだったのではないだろうか。危機感であり、勝利への意欲がチーム内になければならない。経験とは、そのために生かされるべきものなのだから。

対策を練ってくるだろうメキシコ戦だからこそ、レーフは経験豊富なメンバーをピッチに送った。「相手の動きに柔軟に対応してくれるだろう」という思いもあったからだ。苦戦しながらも勝ち点を積み重ね、グループリーグを突破することはできるだろう。

でも、それがピッチで描かれない。

自分たちが共有しようとしているビジョン、それを実現するための準備、例えばメキシコ戦でケディラが狙われた。「メキシコがうまくやった」とはいえ、ボランチとしてピッチに出ている以上、相手のプレスを受けたとしても、それを予測してそこからパスを展開できなければならないし、まわりの選手もそのためのポゼッションをして相手のプレスを回避する動きが出てこなければならなかった。

まずは、ボールを落ち着かせる。

クロースをゲームに関わらせる。エジルが相手の背中のスペースでボールを受ける。ドラクスラーやベルナーがかき回す。ミュラーがゴール前に出没する。キミッヒがアクセントを加え、空いたスペースにケディラがどんどん出てくる。

そうした流れをもたらすことができなかった。韓国戦もそうだ。相手が時に無謀なプレスを仕掛けてきているのに、そこにそのままぶつかっていっていくだけではさすがに厳しい。絶対的に信頼していた主力選手がなす術なく流れに飲み込まれてしまう。それを凌駕できるだけの調子になかった。あるいはまだそれができるだけの状態に仕上がっていなかった。ではプランBはどうした? なかったわけではない。メキシコ戦ではケディラを外してエジルの位置を下げ、プレスをかけてくるメキシコ選手の背後に生じるスペースを狙えるロイスを投入した。流れはよくなった。でも変えきることはできなかった。スウェーデン戦ではある程度相手がボールを持たしてくれたので、ある程度はリズムよく攻撃を仕掛けることもでき、狙い通りの崩しも見られた。クロースが放った試合終了間際の逆転ゴールからは”ドイツらしさ”がしっかりと感じられた。ここからドイツが目を覚ます。誰もが思った。だが、韓国戦ではメキシコ戦よりも悪くなってしまった。チームが機能するための基盤が崩れたときの別プランはなかった。どのプランもあくまでもチームという「ハーモニー」が機能することが前提のプランだった。

現時点から振り返ると、あそこまで膠着した状態になってしまった試合を見てしまうと、「空気を読めない」選手が必要だったのかもしれないと指摘はできる。レロイ・ザネの突破力とスピード、サンドロ・ワーグナーの高さと狂気、あるいは中盤を縦横無尽に走り回る汗かき役が。

レーフにしても考えなかったはずがない。そうした選手の力があれば、グループリーグで負けることはなかったかもしれない。守備をまとめて個の力を生かしながらベスト8、4は達成できたかもしれない。

「だが、それが優勝にたどり着くほどのチーム力になるのだろうか」

レーフの問いは常にそこにあった。そして悩んで出した答えは「NO(ノー)」だったのだろう。彼らを加えることで生じるプラス要素よりも、チームとしての力が損なわれるマイナス要素を気にした。大会を制した時に感じた力を信じたのだ。その力を持っている選手は誰かを見極め、信頼し、彼らがハイパフォーマンスを出すことが大会を勝ち進んでいくための必須要綱にあり、そこへ導き、整えることが準備になった。

「誰が出ても遜色がない23人の選手を連れていく。最大限の力をいつでも発揮できる最強の選手をそろえる」

レーフはそう語っていたが、ただ本番を前にそこに明確なポジション争いはなかったはずだ。揺らぐことのない一体感は感じられなかった。誰が見ても同じスタメン予想になる。主力とされる選手がその通りの力を発揮してくれるのならば何の問題もない。だが、グループリーグにおけるドイツ代表からは絶対的なものがなかった。本番になり、調子がそこまで上がってこない選手をどうするか。でもその時になってから調子のいい選手を探してもやはり遅い。極めようとするあまりに、解き方そのものにこだわりすぎてしまったということだろうか。

相手の対策を受けてもそこをかい潜り、相手の気力を萎えさせる。それが狙いだった。

相手がプレスそのものをあきらめるまで徹底的に。それができたからこそ、4年前ドイツはワールドカップ王者になれた。でも、それができる状態ではなかった。主力選手のコンディションは悪くはなかった。チーム内の雰囲気は「悪くはなかった。普通」と選手は振り返っている。でも「コンディションが良かった」わけではなく、雰囲気も「良かった」わけではない。

サッカーは相手ありきのスポーツだ。

相手がすばらしい動きを見せたら80%の力で勝つことはできない。まして、ここ数年間、世界サッカー全体のレベルはどんどん上がってきている。小国だからと、簡単に勝てるところなどどこにもないのだ。

バランスを作り上げていくことで、チームが最大の力を発揮するようにしたかったはずなのに、そのチームワークが機能しないようでは誰も輝いてこない。もちろんバラバラにならないようにする努力を続けただろう。選手もコーチングスタッフもスタッフも、何とかつなぎ合おうとしたことだろう。だが、そうした「努力して」つなぎ合おうとする見せかけのつながりでは本当の力にはならない。少しのズレや矛盾が「こんなはずはない」の焦りばかりを増強していく。悪い流れを止められない。積み重なり、つながりあっていき、思いもよらぬ結果にもつながってしまうのだ。

いや、難しい。答えがないことに挑むのは本当に難しいとあらためて思う。当事者ではない私たちは、ドイツの負けをどう受け止めるべきだろうか。「なんだ、ドイツ。だらしないな。大したことないな」と見るのか。「ドイツでもこういうことが起きるのか。自分たちはもっと気をつけないと」と気を引き締めるのか。

試合にはターニングポイントが必ずある。

実際に、韓国戦の終盤でマッツ・フンメルスのヘディングシュートが枠に飛んでいたら、全く別の大会になった可能性だってある。決定打となるシーンの要因の多くは、クオリティが問題になる。だが、何のクオリティが必要かが問われなければならない。技術も戦術もフィジカル・メンタルコンディションも、「ここ!」という場面で狙い通りのプレーができるためになければならないのだから。サッカーの試合では本当にいろんなことが起こる。サッカーはシンプルだけど、簡単なスポーツではない。いろんな要素が重なり合って、関わり合って、様々な要因が結びつき合って、試合は進んでいくのだ。

初めてグループリーグで敗退したドイツが、今回の国際コーチカンファレンスでどのように振り返り、どのような盛り返しを図ろうとしているのか。次回は、それをお届けしたい。

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