中野吉之伴フッスバルラボ

「熱心に勉強しよう」というどん欲さは大事だが、そればかりだと視野が狭まる。ハングリー精神よりも、純粋な好きという気持ちの方が圧倒的に強い

▼「熱心に勉強しよう」という意欲はすばらしい

指導者になりたいという若い人が増えている。時折、私のところにも相談の連絡が届く。先日、池上正さんのドイツ指導者研修旅行に帯同した際にも20・30代の人たちも数人いた。決して安くないお金を投資して、休みを作って、ドイツまで来る。誰にでもできることではない。

その道中、いろいろな話をした。育成年代の試合を見ながら、シャルケU13のトレーニングを見学しながら、ボルシアMGとレバークーゼンの開幕戦を見ながら、晩ごはんを食べなら様々な質問をもらった。わからないと思うところを素直に質問する。それは大事なことだ。なぜなら、わかったつもりになることは危険だからだ。自分で考えた内容の答え合わせをする。こちらの答えをフムフムと聞き、安心したようにうなずく。それを見て、一生懸命なんだなと思う。

でも、どこか言葉が重々しい。

彼らの口から出てくる専門用語の連続が現場の空気とそぐわない。子どもたちのサッカーを語るのに、そんな表現は必要だろうかと考えてしまう。勉強熱心しすぎではないだろうか? 目の前にある事情を無理やり自分の解釈の中で見ようとしていないか? もちろん専門知識は大切だ。しかし、そればかりが前面に出てしまうと大事なものが見えなくなる。子どもたちが楽しくサッカーをしているのを、「ハーフスペースの活用がうまくできているなぁ」、「選手間の距離がもうちょっと…」という視点だけで見て、パスカットされた選手がすぐにボールを奪い返しに走り出した姿勢を見逃していたらもったいない。

ピッチ外から大げさなジェスチャーで指示をしている町クラブの指導者を見て、「きっと『コーチング』と『ティーチング』を使い分けて声をかけているんですね」と自己流解釈で納得する。いや、多分あのコーチはそこまで考えていないよ。ライセンスも持っていない、普通のお父さんコーチだよ。でも、ミスを毎秒指摘するようなことはしない。負けていても外から励ましの声を出す。ハーフタイムにはみんなを集めて声を荒げるでもなく話をすることができる。試合展開がどうであっても選手を全員試合に出す。そのことの方が大事だと思う。

海外と日本の違いを現地で実際に目にすることで感じることがある。それは確かだ。実体験に勝るものはない。でも、それらはどうしても海外に来ないとわからないものなのだろうか。「半信半疑で来てみたら、本当にそうだった」。そうした感覚も理解できる。実際に足を運んだ行動力はすごい。ただ、日本にずっといてもわかっている人はいるし、わかろうとして独学でたどり着く人だっている。私自身のまわりにいるそういう人たちは、いい意味でとても自然体だ。良いものは良い。ダメなものはダメ。なぜ良いのか、なぜ良くないのか。その線引きがとてもシンプルでわかりやすい。それがあった上で探求していく。勉強熱心だけど柔らかい。それは彼らが人を見ているからだと思うのだ。理論があって人がいるのではなく、人がいるから理論があるという見方だ。

やりすぎはよくない。
でも、やらないと成長はできない。

毎日やれば、それだけで成長することはない。何をやるか、どう取り組むかに努力しないといけない。トレーニングは量か質かという問いがある。負荷もないトレーニングをダラダラと長くやっていてもプラスには働かないし、内容がいいとされるトレーニングでも頻度とメリハリがないと身につかない。疲れたら休むのは大切。でも、疲れたから何もできないでは一線を超えることはできない。

自分で越えようとする人と、誰かに背中を押されないとできない人。

成長するのはどっちだ? 人は間違いを犯すのが普通だ。ミスをしたときにどうするのか。あるいはミスをしないための準備をどうするのか。最初からすべてできるようになるはずがない。7歳児には7歳の間にやるべきことがある。サッカーだけではないし、学校も、遊びも、休むことも、笑うことも、怒ることも、泣くことも、悲しむことも大事だ。チャレンジは必要だが、何をやっていいわけではない。自分の行動で相手が困っているのに何も感じないのは良いことではない。自分がやりたいこと、自分ができること。それを仲間のやりたいこと、できることと合わせていく。それがコンビネーションというものではないだろうか。ミニゲームを通じて、その感覚をつかんでいく。調整していく。いろんなミスやいざこざや衝突が生まれる。でも、そうすることもなく、お互いを理解することはできるだろうか。ケンカしてもいい。あとで落ち着いて話をして、納得すればいい。握手をして、また一緒に歩きだせばいい。

そうした空気感をわかっている大人のもとにいると、子どもたちの表情も違う。だから、プレーに躍動感が出てくる。プレーに連続性が出てくる。戦術が、理論が正しければいいプレーができるわけではないのだから。

練習や試合を見学する時には、そうした点にも気を配るとまた違ったものが見えてくるのではないかと思う。傾向として、日本から来るみなさんは練習メニューのコピーやプレーシステムのチェックに精を出す。何人対何人? 何mx何m? ルール設定は? 守備の位置どりは?

それはもちろん大事だ。でも、そればかりを気にしてトレーニングを「知っているトレーニング」と「知らなかったトレーニング」にだけ分けて終わってしまうことがある。どのようにそのトレーニングが行われていたのか。ミスがあったときに指導者はどうアプローチをしたのか。声の大きさ、声をかける頻度。そうしたところに大事なものが潜んでいる。

サッカーは決まった枠の中で行われているわけではない。

もちろん、サッカーは自由だというほど何をしてもいいわけではない。ルールはあるし、サッカーというゲームをうまく進めていくための原則はある。個の力は違いを生み出すが、エゴイストなプレーは味方を混乱させる。その違いを知らないとピッチにいても孤立した異物でしかない。ボールを持った選手が決断できる。でも、無数に判断材料があったら、何をしたらいいかわからなくなる。その判断を楽にするための基準として戦術がある。そして、基準があるから変化をつけられる。言葉で、論理的に理解し合うだけではなく、その瞬間を感じあうことも欠かせない。

サッカーは小難しいものではない。

入口から無理に難しくしたら行き詰まってしまう。シンプルに取り組み、そこから奥深く掘り進んでいく。そういうなか、自分の基準を作り上げるためにはやはり交流が大切なのだと思う。違う世代の人と、違うジャンルの人と、違う価値観の人と語り合える場が大切なのだと思う。

すぐにわからないこともたくさんあるだろう。すぐに受け入れられないものもたくさんあるだろう。でも、一度自分の価値観と離れた視点で「そういう考え方もあるかもな」とものを見てみる機会は間違いなく貴重だ。どん欲さは大事だけど、そればかりになると視野が狭くなる。いまわからなくても別にいいのだ。大丈夫、一歩目を踏み出せばあとは前に進んでいく。ただガツガツしたハングリー精神の強要よりも、純粋な好きの気持ちの方が圧倒的に強い力になると、私は思うのだ。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ