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中野吉之伴「子どもと育つ」

本田圭佑のつぶやきをキッカケに指導者を再考! 中野「育成指導者がサッカーを教えられないようでは問題外。でも、サッカーしか教えられない指導者は失格」

指導者をテーマにじっくりと考えてみたい。

そう思ったキッカケは、本田圭佑選手のつぶやきだ。指導者って何だろう。指導者になるってどういうことだろう。指導するって何だろう。指導するのに大切なことってどんなだろう。指導者ライセンスの存在についての問いかけだが、何のために必要なのか、なぜ必要なのか。おもしろいテーマだと思う。私は必要派だ。でも、その前に指導者そのものについて考えてみたい。

指導者って何をする人だ?

ここは育成指導者に焦点を絞って考えてみたい。直訳すれば、育成年代18〜19歳までの子どもたちの指導をする人だ。何についてかは、それぞれのジャンルで変わる。サッカーならサッカーで、野球なら野球。だから、サッカーチームでコーチをしている、監督をしている人は自動的に指導者と認識される。肩書きで見るなら多分そういうことだ。

所属さえわかればいい。「どこどこのチームでコーチをしています」。そういうだけで指導者というアイコンを手に入れられる。指導者のポストにつくことは、場所と状況と互いの条件を選ばなければ誰でもできる。大げさな話ではなく、本当にそうだ。人手が足らない、資金がない、そもそも他に選択肢がない町クラブならば、やってくれるだけでありがたいのだ。そして、ポストにつく。指導者というポストだ。おめでとう。それだけの話だ。

では、その後はどうだろうか?

そこから先へとなかなか踏み込んで行きづらい。特に、日本では時間的な問題でどうしたって踏み込めない指導者がたくさんいる。ボランティアでやっている指導者には、そうした事情もある。でも、そもそも踏み込んだ先にどんな世界があるかを知らない指導者の方が多いのではないだろうか。学びたいという指導者はいても、学び方がわからない。だから、できないというパターンも少なくない。

あと、本人に自覚がないということもある。

周りの人が「指導者しているの? すごいね」とそれだけで持ち上げられることもある。その次は「どの学年?」「どのくらい強いの?」といった話題でおしまいだ。チームが勝ったり、それどころか何かの大会で優勝したりしようものなら一気に『名将』の地位を射止めてしまうこともある。保護者におだてられて勘違いを起こし、自分がすべて正しいと思ってしまう指導者だって結構な確率で存在する。となると、みんながそこを目指したくなる。『自分も!』となる。だから、勝ちにこだわってしまうし、勝つためにいい選手を囲いたがるし、負けると選手のせいにしたがってしまう。みんながそうだとは言わないし、そういうわけはない。でも、そういう人がいるのも確かだ。

学べない、学ぼうとしない。

こうなる彼らのベースにあるのは自分の経験だ。そして、そこがスタートではなく、ゴールになっている。自分の経験を踏襲させることが正解だという理論であり、それができて成績につなげることができたならば大円満で涙の引退というフィナーレが待っている。なるほど。

それが指導者の在り方としてスタンダートでいいのだろうか?

いや、それを認めてしまうのはやはり間違いなのだ。うまくいく人はいる。うまくいっている人はいる。好影響を受ける人だっている。すばらしい指導を受けて、すばらしい経験を積んでいる人もいるのだから。ただ経験ベースのやり方では、申し訳ないが、うまくいかないことの方がはるかに多い。比べることができないほど多いはずだ。理由は非常にシンプルで、指導者とは職種のことではなく、人を見抜き、人とわかりあい、人を導き、人と共に歩むことができる存在でなければならないからだ。

「自分はこれで成長した。自分はこうやってできるようになったんだ」

そういうプロセスはすべて正しかったという図式は成り立たない。なぜなら、もし他のやり方をしていたらもっと良くなっていた可能性だってたくさんあるからだ。伝え方という点に目を向けても、「自分ができたからそれをそのまま伝えれば相手もわかる」というほど指導に単純な図式は存在しない。感覚的にわかる選手もいる。また、そうした選手にはとある素質があることも事実ある。

しかし、素質を見出す手段がそれだけではあまりにも寂しい。

素質とは、一つの何かを表すものではない。そうした狭いところでしか確認されず、それ以外は評価されないのであれば、どんどん才能ある選手は消えていってしまうことになる。実際に、ドイツでは一時期そうした指導者の影響で、子どもたちのサッカー人口が激減したことがある。そして、才能ある選手が出てこなくなってしまっていた。育成とは、一人の指導者で完結させられるものではない。全体的なアプローチが必要不可欠だ。では、求めらえる指導者とは? 以前、「良い指導者の条件とは?」と質問を受けた時にこう答えたことがある。

「大前提として、あらゆることに好奇心をもって取り組んでいること。そして、選手が自分の足と頭で主体的に向き合っていくように導ける人間性を持っていて、ピッチ内にもピッチ外にも様々なポジティブな可能性とネガティブな可能性があることを知っていて、それぞれの可能性がどんなものかという詳細な知識を持っていて、何をいつどのように伝えるかの知恵を身につけている人物」

サッカーの指導者だからサッカーさえ教えていればいいとは思わない。世の中には様々な「ドア」がある。サッカーの世界もそう。プロ選手になるだけが唯一の道ではないし、そうでなければサッカーを続けてはいけないなんてルールもない。仕事をしながらサッカーと生きていく道もたくさんある。でも、自分のレベルと環境にあった形で生涯を通してサッカーと携わっていく可能性を知らない指導者の下だと、プロになるか否かという二極論だけになりかねず、子どもを追い込むだけ追い込んでユースで引退というパターンが減ることはない。

いま、ヨーロッパのプロクラブでサッカーだけをさせるところはない。サッカー選手としてだけではなく、一人の人間として社会で生きていくための礎づくりを重要視している。だからこそ指導者はどこにどんな「ドア」があり、そこを通り抜けるとどんな世界があり、そこを通り抜けるにはどんなことをしなければならないのか、の詳細な知識と経験がなければならないのだ。

サッカー指導者がサッカーを教えられないようでは問題外。でも、サッカーしか教えられない指導者は失格。私はそう思っている。

だから、確立されたライセンス制度が必要になってくる。

講習会の場で、選手と指導者は全く別物であり、選手時代の経験は指導者としての経験には入らないことを知り、学んでいくことの大切さを知る場にならなければならない。言葉の重みを実感できなければならず、年代に応じて適切な対応があることを知らなければならない。トレーニングとはメニュー通りにやればうまくいくのではなく、そこには心理学、教育学、教授学、栄養学、スポーツ生理学など様々な分野のいろんな知識が要求される。

メニュー作りにしても、ただ思い付きでよさそうな練習を並べればいいわけではない。ライセンス講習会を受けたらすべてが終わりではなく、そこで学んだことをベースに、自分でまた積み上げていく準備ができるようになることが大切なのだ。ライセンスを獲得すればそれで何かができる保証には一切ならないのだから。

ここで勘違いしてはいけないのは、ライセンスを取得した指導者が無条件にいい指導者ではないということ。

また「B級ライセンスって言ったって大したことないよ。この前そのライセンス持っている指導者の練習を見てきたけど、別にいいトレーニングじゃなかったもの」という言い方をする人もいるが、その見方も違う。ライセンスはその指導者のベース力を上げるための一つキッカケだ。つまり、「B級ライセンスを取ったけど、その指導がひどいからB級がひどい」わけでなく、「B級を取ってなかったら、もっとひどい」のだ。それはA級もプロコーチライセンスもそうだ。そもそもライセンスの内容をマスターすることとクラブで指導者をすることとは別テーマではないか。指導実践をチェックし、筆記で内容をどれだけ把握しているかを確認することはできても、短期講習会で指導者にふさわしい人間性を備えているかどうかを推し量ることはできない。その場限りのいい顔をする指導者だってたくさんいる。

むしろ指導者ライセンスをどうこうするより、指導者を査定する人の研修を行う講習会やライセンスを考えた方がいいのではないかと思う。結局は人事権を持つ人が、『どんな素質・人間性・知識・経験を持った人が指導者としてふさわしいのか』という確固たる定義も持たずに配置決定をしているのであれば、大問題だ。『どうしてこの人がここで指導者をやっているんだろう?』とその指導者に何を言ったところで、実際にはその人を抜擢した人がいるのだから、そこが何とかならない限り、現場の状況は変わらない。

>>9月21日(月)の「フリーコラム02」へ続く

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