中野吉之伴フッスバルラボ

中野「誰がやればいいではなく、どのようにやるか?を考えていくことが大切なのだと思います」

▼読者からの質問5

ドイツの街のサッカーチームはスポーツのフェラインの一つだと聞いたことがあります。チーム代表者、指導者は専業コーチではなく、ボランティアやボランティアに近い副業が多いのでしょうか? また、サッカー指導だけで生活が成り立っている方はどのくらいいるのでしょうか?

最近、中高の部活は指導を教員が担っていますが、「学校から切り離して外部化を」という声が出ています。ドイツの青少年のスポーツや文化活動は学校とは切り離されているようですが、それが可能なのはどうしてでしょうか? 人材、すなわち指導者と管理者の確保、報酬、運営費、活動場所など、いますぐ日本の部活を外部化できない課題はたくさん挙げられます。これらをドイツはどうクリアしているのか気になるので見解を聞かせていただけたらありがたいです。

 ▼中野からの答え

ドイツにおけるサッカーチームは、すべてスポーツフェラインの一つとして存在しています。フェラインに関しては以前「ドイツサッカーの地盤は地域にフェラインが根付いているのが大きい」を書いたので読んでみてください。

組織の大きさはもちろん様々ですが、どこもそれぞれの地域で大事な役割を担っています。フェラインの歴史をたどると中世までさかのぼることができます。当時から地域において人々が集い、お互いにつながりあうコミュニティの場として機能してきました。

・サッカー
・チェス
・体操
・バスケットボール
・卓球…etc

それぞれ共通の目的を介して人々の交流が生まれるわけです。だから、先にグラウンドや体育館という箱があったわけではなく、「サッカーをやりたい」人々が集い、「サッカーをやるための場所」が必要となったので、グラウンドを作り、「サッカーをできる環境」を自分たちで作り上げていきました。

例えば、戦後直後はサッカーをやりたくてもできない状況にありました。生活の上でもそうだし、グラウンドそのものも使えなくなっていたりしていたわけです。そんな中、彼らは自分たちで動き出します。フェラインにサッカーをやりたい人々が集いだし、行政に志願書を提出するわけです。

「サッカーをやりたいので、グラウンドとして使っていい場所を提供してほしい」

とある行政はそうした話を聞くと、町外れの土地をほぼ無償で貸し出す形でOKを出します。そこに自分たちで土地をならし、平らなグラウンドとし、ゴールを自前で作ったと聞きます。そうした話が、当時のドイツではいろんなところであったそうです。行政側が積極的に整備に乗り出し、体育館などの施設も徐々にまた作られていったそうです。最初からすべて整っていたわけではなく、自分たちで作り上げてきた。

これが現在のドイツにおけるスポーツ環境のすばらしさの基盤となっています。行政側が場所を提供したのも地域におけるフェラインの存在意義が確立されていたからでしょう。人々がそこに集い、世代ごとにつながりあっていく。上の世代が次の世代へと継承していくことができる。すべてがすべてうまく機能しているわけではないです。

なかには、人間関係の悪化からダメになってしまったフェラインもあります。私の住むフライブルクの地方でも少し前に一つのサッカーフェラインが姿を消しました。かつては青々としたサッカーグラウンドがあった場所は、いまでは草がぼうぼうで外れにさびれたサッカーゴールが転がっています。私自身そのグラウンドでプレーしたこともあるし、指導者として子どもたちのプレーを見守ったことがあるだけに、もちろん寂しさもあります。それでもそうした例はそうは多くはありません。その町の子どもたちにしても、確かに自分の町のクラブではプレーできませんが、車で5分も行けば、隣町のクラブでプレーすることができます。

ドイツのフェラインの多くは非営利団体で、活動のほとんどはボランティア活動でまかなわれています。代表も、指導者も、スタッフも、基本ボランティアでかかわっています。現在、私は次男チームのコーチをしていますが、完全ボランティアです。でも、誰もそれを問題だと思っていません。むしろそのことを誇りに思っている。

それが成り立つのはなぜでしょうか?

ドイツの人々にとって「フェライン」とは自分たちのアイディンティティであり、そこに関わること、そこで活動できることがすでに喜びなのだということが根底にあります。どんなに小さな町・村クラブでも幼稚園児から大人のトップチーム、さらにはシニアチームまでがあり、グラウンドに行けば必ず誰かがサッカーをしている。クラブハウスに行けば、誰かがいてブンデスリーガの試合を見たり、日常のなんでもない話を和気あいあいとしていたりします。「サッカー」という一つの共通項があることで、つながり続けることができる。そこは自分たちにとってかけがえのない場所であり、なくてはならない場所であり、だからこそ守り続けていきたい場所なのです。

その大事なつながりあえる「もの」からお金を取ることは彼らの美徳に反するわけです。だから、いまでもドイツのサッカーフェラインの年会費は日本円で1万円もしません。収入源が多くないので指導者やスタッフに支払うお金がそもそもない。だから、ボランティアでの協力を募ります。みんな他に仕事を持ちながらグラウンドに立ちます。でも、指導現場に立つ人で「オレはボランティアでやってやってるんだから」という態度を取る人はほとんど見たことがありません。

横柄な態度を取ったり、子どもの指導者としてふさわしくないと評価されたりしたら、クラブサイドから解任されることも普通にあります。それは「フェラインが何のためにあるのか?」というのと関わる大事な点だからです。

フェラインは地域のコミュニティの場であり、自分たちのアイディンティティ。人が集まらなくなったら存在意義もなくなってしまいます。おらが町への思いは多くの人が持っていますが、だからといってそれだけで人々が集まるわけではない。自分の居場所を感じることができないところに、いつまでもいようとは思えるはずもないわけです。自分のチームだけよければいいわけではない。だからこそ、自分たちのクラブとしての在り方を確立し、それを大切に伝えていくことが、伝えていこうとすることが大切になるわけです。

ドイツではそうしたフェライン文化があるために、学校とはそもそもスポーツをする場所ではなく、学問を学び、将来へ向けての知識を身につける場所なのです。スポーツには教育的な意義を見出すことができるし、スポーツをすることで社会性や人間性の成熟にポジティブな影響を及ぼすこともできるものでしょう。でも、そのためにスポーツをするというのは本来本末転倒な考え方ではないかと思われます。そのスポーツをやりたい、そのスポーツが好きだという思いが先に来るべきだ、と。そして、そのスポーツをすることで教育的な意義や社会性や人間性が身についていたという形式が自然だし、望ましい、と。

学校ですべてを学ばなければならないわけではなく、その機能が分散されていると考えることができるでしょうか。学校からスポーツが切り離されたわけではなく、そもそも別々の機能として動いていたわけです。学校におけるスポーツの意味合いが違うので、ドイツのやり方を日本の体育教育へ応用することはなかなかに難しいでしょうし、目的が全く違うのではとも思います。そして、外部指導者が部活を担うようになれば解決する問題でもないとも思います。学校におけるスポーツの意味合いや意義をわからない外部指導者がそのスポーツを指揮することで問題が生じてしまっては現場に生じるのは混乱だけです。

結局のところ、誰がやればいいではなく、「どのようにやるか?」を考えていくことが大切なのだと思っています。

学校側からのアプローチと外部指導者側からのアプローチ。それぞれが全く別の見解で行うのではなく、お互いにコミュニケーションを取りながら、より良い形を模索していく。どちらかが担えばいいという責任の押し付け合いをするのではなく、お互いのいいところを合わせていく。大人の権力争いや縄張り争い、「あいつはなにもわかっていない」の言い争いをするだけでは先が見えないですし、何より子どもがつらいだけです。意見がぶつかることは普通なのだから、そこからより良いものを生み出していく思いが何より大切なはずです。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ