中野吉之伴フッスバルラボ

サッカーと生きるというテーマでいろいろと考えてもらいたい

私はサッカーが好きだ。

間違いなく大好きだ。でも、「サッカーだけをやっていたら、サッカーのことだけ考えていたら幸せか?」と言われたら、即「違う」と断言する。サッカーは私の人生の一部だ。とても大切な一部だし、それなしで生きることは考えられない。それほど大事だが、でも人生におけるすべてではない。

サッカーを好きになればなるほど、サッカーと関わっていない時間と空間のかけがえのなさに気づかされる。好きな本を読む。カフェでおいしいカプチーノを飲む。お気に入りの場所を散歩したり、初めての町を散策したりする。友人の演奏会で音楽に身をゆだねる。仲間と一緒に食事をとったり、酒を楽しんだりする。子どもとふざけたり、妻とのんびりデートをしたりする。何もしないでただソファーでボーッとする。そうした時間すべてが「私」という人間を構成しているかけがえのない要素だ。

今日から日本へ1週間ほど一時帰国する。

「フランクフルトーアウグスブルク」の取材に出かけ、そのままフランクフルトに宿泊するので、昨日でしばらくのお別れ。妻が仕事で留守だったのは残念だけど、昼過ぎまで子どもたちと一緒の時間を楽しんだ。日曜だから朝はゆっくりと起き、昨日のブンデスリーガ・ダイジェストを見ながら共に朝ご飯を食べて、昨日と一昨日の子どもたちの試合について会話をした。何でもない日常のワンシーン。でも、ただのワンシーンではないのだ。どれもが私の中で輝いているとびっきりのハイライトなのだ。

これはあくまで私という人間の構成図でしかない。人それぞれ自分を構成する要素は様々ある。好き嫌いがあるし、職業的な方向性もある。多趣味だからすごいとか、一つに没頭しているから偉いなんてことはない。誰かが誰かを「こうでなきゃいけない」なんて強制できるものなんて本当は必要ないんだ。自分が好きな人がやっていることすべてを好きになれるわけではない。私はどれだけ相手のことが好きでも、その人の所作や考え方、立ち振る舞いや趣味すべてが合うわけではない。合わなくて気にならないところもあれば、どうしても我慢できないところだってある。そうしたところはどうしたって嫌いなままだ。それを無理に好きになる必要なんてない。でも、それはその人のことを嫌いになるというわけではない。好きな人でも嫌いなところがある、ただそれだけのこと。相手のそうしたところとの距離の取り方、近づき方を少しずつ身につけていけばいいだけと思っている。

自分が好きなものを決めつけることだって本当はいらない。だってその時々で、自分の心の移り変わりで、自分の置かれている状態で、自分の今いる人間関係で、自分が暮らす環境で、自分たちの嗜好なんてすぐに変わってしまうものなのだから。

3〜4歳の頃、電車や車の名前をアッという間に憶え、街を歩いていて目にしたらすぐにそれが何かがわかっていたはずの私の子どもたちは、たった数年の間に興味の矛先がガラリと変わり、ポケモンのキャラクターはすべてわかるけど、電車の名前はほとんど忘れてしまっている。カーズのセリフをあれだけ覚えていたけど、それはどこかに飛んでいき、いまではコナンのシーンが彼らの頭の中のスクリーンに流れている。そういうものだ。そして、それは子どもの間にだけ起こることではない。

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