活動制限があったから僕らはサッカーができる喜びを改めて感じたはずだ。大人が手本となって子どもたちに示していこう。
▼ コロナのせいにする前に僕らができること
新型コロナウィルスの拡大はなかなか収まりそうで収まらない。日常生活すべてをいつまでも停止しておくことはできないから、みんなそれぞれに気をつけながら、それぞれに必要な活動をする。でも、どれだけ気をつけていても、どれだけ対策を神経質にやっても、感染可能性を0にすることはできないから大変だ。
そもそも日本でもドイツでも制限が緩和されたり、自粛期間が過ぎたら、どうしても人間同士のコンタクトが増えてくるのは自然の現象だ。増えないわけがないし、それに増えてもある程度は許容できる、対処できると判断されたから、緩和や自粛解除はされたわけではある。
だからやっぱりいま感染者が出たから騒ぐというのはおかしいし、感染者を0にという方が、日本の現状からすれば現実離れしているのではないだろうか。
もちろん「コロナは別に怖くない」「コロナはもう終わっている」と勝手に解釈して何の対策をしないのは論外だと思うし、だからと「感染が怖いから」とあらゆる活動を批判するのもまた違う。
誰かが何かをすれば解決する問題なのではないから、やりすぎにならないように、それぞれができることを気をつける。コロナ前まで当たり前だったことを今すぐやる必要もない。コロナ期でできなかったことをこの一年で取り戻そうとする必要もない。
世界的にも歴史的にも前例のない事態と自分たちは向き合っているのだから、すぐに今まで通りに戻そうと焦るべきではないと思うのだ。今までの”普通”がこれからの”普通”となるわけではないのだから。
それに前例がないということはいろんな可能性が広がっているということでもあるのではないか。今できることを大切にやっていく。それがこれからの僕らの”普通”となっていくはずだ。それをどう築き上げていくかは、まさに今僕らの時代との向き合い方にかかっているのではないだろうか。
何をしたらいいのか。誰かが無理をする必要はない。感染者は加害者ではなく病気になった被害者なのだから、当たり前に思いやりを持っていたわる。「密な状況ではマスクを使う」「頻繁に手をしっかりと洗う」「不必要な密を作らない」を守っていく。
まとめたら、人間として当たり前のことを当たり前にやろうということだ。
大人が手本となって子どもたちに示していこうではないか。
協力し合って生きるということはどういうことかをでっかい背中で見せていこうではないか。
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