中野吉之伴フッスバルラボ

【ゆきラボ】ギュルスという村を知っていますか。決して忘れず、決して繰り返してはいけない歴史

こんにちは。毎週水曜日の無料コラム「ゆきラボ」、今週はここで暮らすときに避けて通れない、ドイツの歴史の話をお届けします。

フライブルクの旧市街入口。フライブルクを訪れる観光客の多くが立ち寄る場所ですし、コロナ禍がなければ、晴れた日には学生がめいめいに集まって過ごす賑やかな場所です。「プラッツ・デア・アルテン・シナゴーグ」旧シナゴーグ広場と呼ばれるこの広場の一角にはこんな標識が立っています。

高速道路や幹線道路沿いにはよく見られるこの黄色い標識ですが、市街地の真ん中には普通ありません。なぜ1000キロ以上も離れた場所を示す標識がこんなところに?と少し違和感を感じます。

“Gurs”ギュルスは、フランス南西部に位置する小さな村の名前です。現在は人口400人程度の小さな集落ですが、かつてここにはユダヤ人強制収容所がありました。元々はフランスの刑務所でしたが、第2次世界大戦中にナチス・ドイツの強制収容所となり、政治犯や思想犯、そして数千人のユダヤ人がここへ収監されました。これは一見ただの標識に見えますが、ギュルスという忘れてはいけない地名を刻んだモニュメントなのです。

コロナウィルス第2波による再ロックダウンが始まる少し前のこと。1022日の夕方、この旧シナゴーグ広場に多くの人々が集まって花を手向けました。80年前の19401022日、フライブルクやカールスルーエなど、フランスに近い都市に住んでいたユダヤ人は、秘密警察ゲシュタポの手によって一斉に強制連行され、鉄道で1027km離れたギュルスの強制収容所へ送られました。

花が供えられている水盤のようなモニュメントは、かつてこの場所にあったシナゴーグ(ユダヤ教の集会所)の形をしていて、旧シナゴーグ広場という地名もそれに由来します。フライブルクのシナゴーグは強制連行が行われる少し前、1938119日から10日にかけて行われた「水晶の夜」(現在のドイツでは「迫害の夜」と呼ばれています)というユダヤ人を標的とした暴動によって放火され、焼失しました。先日119日にはフライブルク市長らがここで献花し、追悼を行いました。コロナ感染予防のため、小さな式典となりましたが、それでも決して中止にしてはいけない行事だったと思います。

広島・長崎への原爆投下、そして敗戦を振り返る季節として、日本では夏が戦争の惨禍を振り返る一つのタイミングになっていますが、ここフライブルクでは秋も深まる10月22日、そして11月9日とその前後の時期が、過去の過ちに学び、思いを馳せる時期となっています。メディアでも過去の歴史を紐解き、犠牲者を悼む報道が数多く流れます。 小4の次男もこのタイミングで第2次世界大戦やホロコーストについて学校で学んだそうです。

ギュルスでは、劣悪な環境下での病気や寒さ、飢餓によって多くのユダヤ人が亡くなりました。生き残った人々も後にアウシュヴィッツ強制収容所に送られ、そこで命を奪われました。ドイツの多くの都市では「つまづきの石」と呼ばれる小さな金属のプレートが道に埋め込まれていますが、これはかつてそこに暮らしていたユダヤ人がホロコーストの犠牲になったことを記憶に留めるためのものです。

このつまづきの石、決して特別な存在ではなく、戦前からの市街地では少し探すだけで簡単に見つけることができます。身近な場所にいたはずの人がそれほど多く連れ去られ、それほど多くの生活が破壊されたことを思うといたたまれない気持ちになります。記録では、フライブルクからは450人のユダヤ人が、住まいも財産も日々の生活も何もかもを突然奪われ、連れ去られたとのことです。

カミラ・ブロッホとレオ・ブロッホ夫妻が住んでいたことを示す「つまづきの石」。2人とも1940年にギュルスへ連行されたあとアウシュヴィッツへ移され、そこで亡くなったことが刻まれています。当たり前のことですが、亡くなった方一人一人にも日々の生活があったことを強く意識させるモニュメントです。

過去の過ちは、決してなかったことにはできません。変えられない過去は、忘れず、ごまかさず、静かに直視して、二度と繰り返さないための努力をする。二度と繰り返さないために何ができるのかを考える。決して簡単なことではありませんが、忘れないための努力を怠らないドイツという国の態度に学ぶべきことは多いと思います。

今週もお読みくださりありがとうございました。次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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