【きちログ】メディア人としての僕の生き様。まっとうな目で確かな判断をしていきたい。節目の日だから僕なりの所信表明
▼ 16年続けた通信員の仕事を終えた
3月1日、僕は新しい一歩を踏み出していた。
2005年1月1日からずっと務めていた日刊スポーツとのドイツ通信員契約が満了となったのだ。実際は2年前の段階で契約内容に大幅な変更があり、それ以来仕事の仕方をシフトチェンジしてきたので、このタイミングで別に生活の仕方が変わったりということはない。それでも、長い間自分の中に確かにあったものから別れを告げるということになると、いろいろと感慨深いものも出てくる。
実は一番最初の仕事はボクシングだった。日本人ボクサーがドイツで世界戦があるからテレビ中継を見て内容をレポートしてという内容だったと思う。記憶もあいまいなので当時のメールを探してみようとしたが、そういえばあの頃使っていたのはAOLだった。ひょっとしてと思ってサインアップを試みたが、「しばらく使われていなかったために無効となりました」という一文が。
そりゃそうだ。しばらくどころの話ではない。
ハードディスクの深ーいところまで探してみたら見つかるかもなかなかの作業になるので今回はあきらめることにした。
正式に通信員としての仕事がスタートしてからは新聞読みが日課だった。ドイツの全国紙を中心に数紙に目を通し、めぼしいニュースを日本語に翻訳してメールで送るわけだが、当時AOLを使っていたころはそれこそダイアルアップ接続だったので、今のインターネット環境と比べたら、まぁ遅い。
接続料のほかに通信料がかかるはずだったが、当時学生向けの月ごとプランがあり、それだと接続料だけで使用できたということがあった。今でもなぜそれで使えていたのかよくわからないが、同じ立場の学生同士、独自のネットワークで情報を仕入れてきては、みんなでシェアして生きのびてきていたのだ。
はじめたばかりのころはやっぱり緊張感もあったし、毎朝6時に近くのパン屋さんで新聞を買って、すぐに情報を送っていたりしていた。自分の送った情報が記事として掲載されたのを見るのはすごくうれしくてはげみになる。
そして通信員の仕事をもらえたからこそ、就労ビザを手にすることができた。学生ビザからの書き換えで外国人局から何度もチェックされて、最終的に9か月間も仮ビザで過ごす時期もあったが、最終的にうまくいったからそれでいいのだ。
それこそ最初は「ひょっとしてそのうち強制送還?」なんてことを恐れていた時期もあったけど、でも3か月を過ぎると「なんとかなるんだろ」と腹をくくって生活できていたんだから慣れって怖い。
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