中野吉之伴フッスバルラボ

【指導論】試合に出るのが怖くなってサッカーをやめようとしている子どもたちは仕方のない存在なのですか?

▼ サッカーって誰のものだ?

これまで当たり前のように”補欠選手”という文化がまかり通る日本の育成年代のスポーツ環境。

学生時代の同級生で小学生サッカー少年の母になった友人から伝えられた事実です。

本来なら愉しい小学生年代のサッカーライフを送るはずだった子が”補欠”というレッテルを貼られ、出場機会が少なく、たまにしか出してもらえない試合でミスをすればコーチ以外にチームメイトからもミスを責められ、試合に出ることが怖くなってしまいサッカーが苦痛になってしまった我が子から母に告げられた言葉。

「コーチはいいチームにしよう!とか言うけど、いいチームって一体何なの?」と。

この言葉は一緒にサッカーをしたことがない僕にも重く響きました。

友人の息子さんと面識はありませんがこの子は小学生サッカーを最後にサッカーを辞めると言っています。

先日、2022年より、第4種(U-12)チームに所属するサッカーおよびフットサル選手のJFA登録を無料化するとアナウンスがありました。JFAは「JFA2005年宣言」に掲げる「JFAの約束2050」の中で「サッカーファミリーが1000万人になる」ことを明記するとあります。
単に会員数を増やすことが目的なのでしょうか?

サッカーファミリーとなってくれた子どもがサッカーをプレーすることが愉しい!と心から思える環境。全ての子ども一人一人が輝ける環境を作ることから目を背け、サッカーが愉しくなくて途中で辞めてしまう子から、小学生年代から補欠というレッテルを貼られた子どもたちの声に真剣に向き合わなけれならないと思います。

これは僕の指導者仲間である大山宏和さんによる投稿だ。胸が痛くてしょうがない。

サッカーをすることを楽しみにグラウンドへやってくる子供が、サッカーをする機会を与えてもらえず、試合に出ることを恐怖に感じるほどになってしまう。

あってはならないことだ。それとも「スポーツってそういうものだから、しょうがないよ」と思われるだろうか。

そんなはずはない。スポーツってそういうものじゃない。

何度でも言うが、特に育成年代におけるスポーツの現場で何よりも大事なのは安心安全。これがない中で「チームが強い」だ、「強豪チームへ進む選手が出ている」だのはたわごとでしかない。

サッカーを好きで、サッカーがうまくなりたくて、毎回の練習を楽しみにして、いつも一生懸命取り組んでいて、そんな子が試合に出られないなんてことはありえない。

誰だってうまくなりたいよ。誰だって試合に出て活躍したいよ。誰だって試合に勝ちたいし、頭でイメージしているすっごいプレーをやって見せたいんだよ。誰だってヒーローになりたいんだ。うまくなって上のレベルを目指すことが悪いなんてことは全くない。

でもさ、

なんでうまくなけりゃ試合に出ちゃダメなの?
なんで試合に出るための資格が必要なの?
なんでそこまでして勝とうとしなきゃダメなの?

僕らはみんなサッカー選手の前に人間だ。みんなものすごいポテンシャルを秘めた存在だ。成長のための機会はフェアに与えられるべきなんだ。やっても無駄なんて誰がきめんのさ?

もちろんみんながみんな覚醒して、プロレベルになれるなんてことはないよ。夢を見ることと夢に溺れることは違うんだからそこは分けて考えないといけない。現実を見て、ひとりの人間として歩むための頭と足をもたないといけない。

だからといってプロになれなきゃ意味がないなんてことは絶対にない。スポーツをすることで僕らは幸せの意味を心から知るチャンスを得ることができるんだ。体を動かして、頭をひらめかして、心を解放して、人をつなぎ合わせる。その相乗効果が自分と仲間と、そして周りの人たちの力をさらに高めてゆく。

勇気をもってチャレンジして、新しい世界に出会えるっていうのは、僕らが生きている中でとても大事なことじゃないか。そして本来スポーツというのは、その素晴らしさを自然に学ぶことができるはずなんだ。そしてそのための機会というのはだれにでも与えられた大事な権利だ。

僕らが生きる目標というのは必ずしもプロ選手として観衆の前で活躍できる人間になるってことではないよね?世間一般的な物差しで考えられる一般企業とされるところで役職につくことでもないよね?

それが素晴らしくないなんて言うつもりはないよ。ものすごいことだよ。そこを目指すことがダメなんてわけでもない。でもそうじゃないと幸せに生きられないなんてこともないんだ。

幸せの定義は人それぞれかもしれない。だからこそ、幸せって何だろうって考えて、幸せに生きるための術を知り、規律の意味を学び、人との関わり方を身につけることが大事なのではないだろうか。幸せの方程式はそれぞれが作るもので、方程式に僕らが閉じ込められることじゃない。

社会は一方通行じゃ回らないんだ。もう一度言う。サッカー選手である前に、スポーツ選手である前に、僕らはみんなは一人の人間なんだ。

困っている人がいたら、相手の立場に立って一緒に悩んであげられる人がすごいんじゃないの?
助けを求めている人がいたら、こちらから手を差し伸べてあげられる人が尊いんじゃないの?
落ち込んでいる人がいたら、そっとそばにいて傷がいえるのを待ってあげられる人が強いんじゃないの?

スポーツというのはそのための構図を自然と学べる素晴らしいものなのに、ゆがんだ大人の先入観が子供たちをおかしな枠の中に閉じ込めていくのは悲しいことじゃないの?

これは先日僕のWEB講習会で使用したスライドで、SCフライブルクU12監督ヨアヒム・エブレがしてくれた話だ。

人類は歴史の中で様々な困難と直面し、様々な問題を克服してきた。未知なる病や未曾有の災害。現代においては対処法が整っているものでも、それがない時代には《神に祈ることしかできない》なんてものだってたくさんあった。

では衛生学の面から見て、人類の死亡率を大幅に下げた措置とはなんだろう?

答えは、

 

 

 

浄水処理。

誰でも蛇口をひねったら安心して安全な水を飲むことができるというのは当時からすれば革命的なことだったのだ。

そして、浄水処理技術の向上で感染病が防がれ、危険な病から身を守ることが可能になったというわけで、これはとても常識的な話だろう。「そんなの知ってるよ」という範疇かもしれない。でもなんでこんな話をしたかというと、社会的に、一般的に当たり前になっているものが、スポーツの世界ではなぜかおざなりになっていることが多いからなのだ。こと日本は。

ではスポーツにおいてこの浄水処理にあたるものって何だろう?

それは試合環境ではないだろうかとエブレは指摘していた。

つまり、だれもが安心に、安全にサッカーをすることができる環境だ。サッカーを続ける何よりのベースだ。サッカーって練習でボール蹴ってりゃそれでいいでしょなんてことはないんだ。試合をしてこそのサッカーでありスポーツだ。うまくないと試合に出さないじゃない。試合に出るからそのスポーツが好きになって、もっとうまくなりたいと思って、そして成長していくんだ。

そして子供の成長に対してフェアに向き合えない大人が子供たちを失望させ、幻滅させ、憤りさせ、サッカーから離れさせてしまう。

もしいまもこうした状況がまだ僕らの《当たり前》なのだとしたら、変えなければならない。僕らは変わらなければならない。しょうがないことではない。僕らは今までの常識を疑うところから始めなければならない。

育成指導者は子供たちの未来を預かる存在。光輝く未来を見せてあげたいではないか。

できないことなんかじゃない。

【対談】池上正さんと益子直美さんとこれからのスポーツ指導法を考える。

 

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