「ゼルビアTimes」郡司聡

【★無料公開】【コラム】J2第17節・清水エスパルス戦/『少年サッカーの街対決』。目標としてきたその背中

▼ルーツは『打倒・清水』

FC町田にとって、常に清水FCはお手本のような存在だった。彼らに大会で勝つことを目標に定めつつも、重田氏や守屋相談役と同様に小学校の教師を務め、清水サッカー界に多大な貢献を果たしてきた堀田哲爾氏を町田市の体育の研修会に招聘。サッカーの勉強会を開くなど、勝負の枠を超えた交流も深めてきた。

ところがーー。清水FCの背中を追い続けてきたFC町田だったが、時の経過とともにある難題に直面した。1993年のJリーグ開幕に伴い、清水には清水エスパルスというJリーグクラブが誕生したものの、町田には地元出身選手の受け皿となるJクラブは存在せず、町田で育ったプレーヤーは町田を去るしかなかった。92年当時、のちの横浜フリューゲルスが町田を本拠地とするプランが浮上。実際に町田市にJクラブ誕生を願った市民が8万人にも及ぶ署名を集めるほどの機運が生まれたものの、そのプランが実現することはなかった。

「清水に次ぐプロサッカー選手を町田が育てながらも、彼らがココを去らなくてはならないことへの悲しさは拭えませんでした」と守屋相談役。しかし、いつしか町田に地元出身選手が戻ってこられるプロクラブを作ろうという意思は、多くの人に受け継がれていく。

1989年にはFC町田の社会人選抜チームにユースの卒業生が加わる形でFC町田のトップチームが発足。97年にはチームの登録名をFC町田ゼルビアに変更し、ゼルビアは東京都社会人リーグ4部から一段ずつカテゴリーの階段を駆け上がっていく。途中にはチームの株式会社化、各カテゴリーでの“挫折”も経験し、昨季大分トリニータとのJ2・J3入れ替え戦を制して4年ぶりにJ2復帰を決めた。

「FC町田の根っこの部分には『打倒・清水』があるんですよね。その思いは、現在のゼルビアにつながっていきますが、町田に関わる地域の方々の情熱の原点は『打倒・清水』にあると言ってもいいでしょう。現在のゼルビアがあるのも、清水FCという存在があればこそ。本当に良き目標でした」

77年のFC町田発足から、“清水三羽烏”を擁した清水FCを撃破し、FC町田は全日本少年サッカー大会で優勝を果たすまでのチームへと成長を遂げてきた。ゼルビアの前身にあたるFC町田の発足から40年余り。いまや町田の象徴であるFC町田ゼルビアが、同じJ2というカテゴリーでサッカーどころ・清水の象徴的存在である清水エスパルスを聖地・野津田に迎え撃つーー。『打倒・清水』。その一つの終着点がそこにはある。

「少年サッカーという意味では同じ舞台に立てたけれども、Jリーグという舞台において、清水は遠い存在でした。まさにシッポもつかめないような存在でしたが、自分たちのプロクラブができることもまだ現実的ではなかった中、プロの世界で清水と同じ舞台に立つなんて……。夢のまた夢のような話です。よくここまできたなと思いますが、誰か一人の力で成し遂げたというよりは、町田という地域の力でここまで来られたと思っています。清水とはいつまでもライバルとして戦えるようなカテゴリーに、ゼルビアもいたいと思っています。結果はどうなるか分かりませんが、8日の初対戦は思ってきたことがついに実現する日でもあります」

常に背中を追い続けてきた存在と、プロの舞台で肩を並べる日がやってきたーー。町田のサッカー関係者にとって、清水とのゲームは“至福の時間”となるに違いない。

Photo&Text by 郡司 聡(Satoshi GUNJI)
Photo by ©FC町田ゼルビア(整列)、郡司 聡(守屋相談役)

清水との対戦を前に、思いを語った守屋実相談役

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