松本雷鳥通信

【雷鳥報道・トップ】アーカイヴ『2011年8月4日→2012年8月5日』

今日、8月4日は松田直樹さんの命日になります。以下の原稿は2012年8月に『J’sGOAL』のJ2日記に掲載されたものの転載です。
あの直後から、多くの“物語”が語られ、そして消費されていくなかで自分に出来ることは何かと自問自答してきました。皮肉にも多くの媒体から原稿の依頼があり、それでも自身を見失うことなくあえて淡々と筆を進めたことは覚えています。
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■2011年8月4日→2012年8月5日
松田直樹選手の1周忌となった8月5日の愛媛戦では、背番号3のビッグフラッグが掲出され、チャントがアルウィンに響きました。それにしても本当に色々なものが、色々なことが劇的に変わった1年だと改めて思います。

日本代表としてオリンピックやワールドカップにも出場しました。名門・横浜M(現:横浜FM)の押しも押されもせぬ主力選手として2年連続リーグ制覇にも貢献しました。そんなスター選手が新たに選んだ戦いの舞台は、JFLでした。
松本山雅の一員としてプレーしたのは僅か15試合。筆者自身も長い時間お話を伺う機会はなかったのですが、囲み取材やコメント取りなどでざっくばらんとした口調ながら、取材者の目を見てきっちりと答えてくれたのを覚えています。その言葉もまた取材陣をうならせるものが多く、豊富な経験に裏打ちされた確かなサッカー哲学を持っている選手でした。

8月2日のお昼過ぎ、仕事が終わって一息ついたときに第一報を聞いた筆者は、状況が飲み込めないまま慌てて搬送先の病院に向かいました。病名は『急性心筋梗塞』。極めて厳しい状況であることを告げられたのは、夕刻から行われた記者会見でした。多くの人がピッチに戻ってくることを当然のように信じていました。しかし2日後の午後1時6分、残念ながら還らぬ人となりました。
大黒柱を失ったチームは一時Jリーグ加入の絶対条件であるJFL4位以内が遠のく危機的状況を迎えたものの、最後の最後でチームが一丸となりました。ひとつも負けられない最終盤に怒涛の連勝を重ね、宮崎の地でホンダロックサッカー部に2-0で勝利。遂に悲願のJFL4位以内を成し遂げました。紆余曲折のあった劇的な2011シーズンはこうして幕を閉じたのですが、その間ずっと、背番号3のユニフォームはホームはもちろんアウェーにも全てベンチに『帯同』して、無言の激を飛ばしていたのです。

そして、夏秋冬春。季節は巡り、またこの日がやってきました。
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(文・多岐太宿)

※この原稿は、『J’sGOAL』2012年8月10日に掲載されたものの転載です。

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