森マガ

僕はなぜカズさんを使おうとしたのか……下平隆宏が気付いた『1つの歯車』【サッカー、ときどきごはん】

勝負の年のはずだった
弱点だった攻撃力も補強した
ところが歯車がかみ合わない
そのうちに自信をなくしてしまった

敗軍の将がその年のうちに自らを語ることは少ない
それができるのは自分を客観的に評価できるからこそ
だからこそ今も引く手数多なのだろう
そんな下平隆宏に自らの振り返りとオススメの店を聞いた

 


■なぜ柏を離れようと思ったか

今は自宅のある柏で家族とゆっくり過ごしています。7月には自分の地元の青森に帰省してお世話になった方々に挨拶したり、昔のサッカー仲間と会ったり、実家でのんびり過ごしながら今までできなかったことをやってました。

そのときに「折角帰省してるのなら地元のクラブチームを指導してほしい」と言われて、いろんなカテゴリーの指導をしたんですよ。4月に監督業を辞めてから3カ月ぶりの指導でしたけど、久しぶりの現場は楽しくて思わず熱くなってしまいましたね。

そしてこれまでを振り返ったときに自分のサッカー人生は本当に恵まれていると思いました。もちろん自分だけの力だけではなく、いろんな人の支えがあってのことだと思いますし、人との巡り合わせや出会いも大きかったと思います。

2016年、僕は柏レイソルのコーチだったんですけど、3月にミルトン・メンデス監督から引き継ぐ形で監督になりました。トップチームのコーチになったのはそれが初めてでしたね。

就任したときは3試合で勝点1という状態でしたが、セカンドステージでは5位になることができました。2017年のリーグ戦ではアカデミー出身の選手をどんどん起用して4位になり、ACLプレーオフ出場権を獲得することができたんです。

監督として実質3年目の2018年は、ACLプレーオフに勝って本大会の出場権を獲得して、JリーグとACLの両方を戦うことができました。ACLはタイトルを狙おうと臨んだんですけど、なかなか勝ち切れないゲームが続いて、残念ながらグループリーグで敗退してしまいました。

その影響もあってか並行して戦っていたリーグ戦でもなかなか結果の出ないゲームが続いてしまって、5月12日に川崎フロンターレに負けたことで監督を退くことになりました。その時点での成績は11位でまだJ2降格圏ではなかったんですけど、2017年がいい成績だったから期待も大きかったのもあって退任することになったんです。

だけど監督を退任した1週間後に強化部のダイレクターに就任したんです。監督を辞めてすぐにそのチームのダイレクターになるって、あまりない事例ですよね。

レイソルには選手時代から長くお世話になってましたし、指導者としてもここまで育ててもらった感謝の気持ちもありました。だから、指導者とは違う立場になるけど少しでもそういった思いをクラブに還元できればと思ったんです。

レイソルとしても僕と長期の契約を結んでいたこともありましたし、様々な思惑もあったと思います。監督としての未練は当然ありましたが、クラブからは「一旦退いて、ダイレクターやって、またタイミングが合うときに監督をやればいいよ」という雰囲気で言われたんです。僕も悩みましたけど、ダイレクターを引き受けることにしました。

ダイレクターの仕事は監督業とはまた違った重い責務を負う仕事でしたね。後任の監督にはヘッドコーチから昇格した加藤望さんが就任したので、望さんが目指すサッカーへのサポートと選手の補強が主な仕事でした。

特に夏のウィンドーに向けた選手の補強の準備は後期を戦う上では重要な仕事でした。監督とクラブの間に入って、監督のリクエストする選手をリストアップしてクラブと相談し、獲得を目指すんです。監督からはCBとFWの補強をしてほしいと強い要望がありました。

CBには以前レイソルにも所属していて、当時スペインでプレーしていた鈴木大輔を補強することができました。彼の守備力と経験、リーダーシップは必ずチームの力になると確信してました。

そしてFWには監督から「サイズのある大型FW」というリクエストがあったので、3人の外国人ストライカーをリストアップしました。そして最終的に1人に絞って決めたのがマイケル・オルンガだったんです。

彼のプレー映像は何度も見返してもすごかったですね。抜群の得点感覚と身体能力がやはり際立ってました。しかし当然それだけではJリーグで活躍できる保証にならないんですよ。得点力だけでなく守備力も求められるということに加え、戦術的な理解力や日本の生活への順応性も大事になってくるんです。

映像を見る限り守備は献身的にしそうだし、戦術理解度はあると感じたんですけど、どうしても性格的な部分までは分からないし、日本に順応できるのかという不安はありました。正直に言うと、もう最後は「ケニア人初のJリーガーも面白い」って「賭け」でしたね。

でも彼が日本に来て初めて一緒に食事に行ったとき「心配ない」と感じました。彼と話をして人間性も間違いないなと実感できたんです。

馴染むまでには少し時間がかかったけど、その後の活躍は素晴らしかったですね。2020年、横浜FCの監督していた時にレイソルと対戦して、そのオルンガに2点取られて負けたんで、彼のすごさを痛感させられましたよ(笑)。

それからレイソルの2020年に向けた新人選手の獲得にも携わりました。そこで獲得したのが上島拓巳です。彼はレイソルのアカデミー出身で、中央大学に進学しレギュラーを確保していて、すでにJ1のチームからもオファーを受けてたんです。

でも僕がU-18の監督だったときの教え子でもあったんで、「レイソルに戻って来てほしい」と口説きました。彼の同期の中山雄太や手塚康平など優秀な選手もレイソルにいましたし、レイソルアカデミーから大学経由でのプロ1号になってほしいという思いもありました。

そういう選手の獲得以外にも、ダイレクターの仕事は多岐に渡ります。何よりチームを勝たせないといけない。現場で起きてる問題を解決し結果を出す。それが大事な任務だと思っていました。

しかし一度狂った歯車は簡単には戻らなかったですね。なかなか成績が上がらないチームをうまく助けることができなかった。結局最終的にはJ2に落ちてしまったんです。シーズンのスタートは監督、それからダイレクターとして責任は自分にあると強く感じました。それで自分からクラブを離れたほうがいいと思ったんです。

責任をとる形でクラブを去ることになり、もちろん最後は辛い思いもしました。でもレイソルでは長くU-18の監督として多くの選手をトップチームに昇格させることができました。そのアカデミーの選手たちをベースに外国人選手や補強した選手を加え、攻撃的なスタイルをトップチームでも採用してチーム作りはできたと思います。

そういった自分の指導者としてのスタイルが違うクラブでどこまで通用するのか、勝負してみたいと思ったんです。それで、やっぱり現場に戻りたいという気持ちもありましたから、レイソルを離れて指導者で勝負しようと考えたんですよ。

 

■順調に進んできた監督としての道

自分のサッカー観として「常に攻撃したい」というのがあるんです。自分たちで主体的にボールを持つことが好きだから。

ボールを持つこと、特に「ビルドアップ」は攻撃する上で重要視している部分で、GKを含めたビルドアップが攻撃の第一歩になると常に考えてます。安定したビルドアップから前進することができれば当然攻撃する回数は増えるし、単純に守備の回数が減る。そうなるとゲームをコントロールできる確率が増えて勝率を上げられるんです。

そういったゲームモデルからのチーム作りは得意としてる部分でもあるし、自分の中でもすごくこだわってるところなんですよ。自分たちがどういったゲームモデルで戦うのかはすごく重要だと思っています。もちろんプロの世界なので勝敗は常に付いてまわるけど、自分たちがゲームモデルに沿ってプレーすることで、修正や積み上げも自ずと見えやすくなるんです。

「自分たちがこういう配置に立ってボールを持つと、相手はどう奪いにきて、どこにスペースができるのか」というのを想定してゲームを考えてるんです。そしてできたスペースには誰が入っていったほうがいいだろうかと考えます。

あとは「フリーマン」と僕は言うんですけど、相手GKが前に出てこない限りフィールド上には必ずフリーな選手ができるので、そのゲームの中でフリーになりそうな選手を事前に考えるんです。それを事前にミーティングでアナウンスし、トレーニングで落とし込んだり、ゲーム中に修正したりします。特に攻撃の部分では、決定的な場面につながるキーとなるスペースを逃さず突いていけることも重要になってきます。

相手エリアの残り30メートルのところは、かなりシビアなスペースとタイトなマークになってくるので、そこは選手の持ってるタレント性だったり、アイディアだったり、時には身体能力も必要になってくると思ってます。

そんなスタイルを確立したのは、レイソルアカデミーのときなんですよ。当時のレイソルアカデミーは一貫してボール保持のスタイルでやってましたから、そこで指導者としてベースができてました。

そういった一貫したスタイルで、2012年にはクラブユース選手権で初優勝したんです。当時の主力には、秋野央樹、中村航輔、中川寛斗、小林祐介、中谷進之介など優秀な選手たちがいました。2014年はプレミアリーグイーストで初優勝を飾ることができましたし、中山雄太、手塚康平、上島拓巳、伊藤達哉など多くの選手をプロに輩出することができました。

そのU-18の監督を6年間務め、毎年トップチームに選手を昇格させることができたり、他クラブでプロになったりする選手を育てる仕事は非常にやりがいのある仕事でしたし、指導者としても自信につながりましたね。

U-18時代の一番の思い出は、天皇杯でトップチームと戦ったことですね。当時はだいぶニュースになりましたけど、第92回天皇杯で、千葉県代表として予選を勝ち上がり、天皇杯1回戦を突破して2回戦で念願のトップチームと対戦したんです。

日立台のスタジアムでの試合でしたが、電光掲示板にレイソルの二つのロゴが並んだ時は不思議な感覚でしたね。結果は0-3で負けるんですけど、トップチームは当時もネルシーニョ監督で、前年MVPだったレアンドロなどガチなスタメンできてくれて真剣勝負できたことはいい思い出です。

だから2016年にクラブから監督就任の打診をされた時には、「アカデミーでやってたサッカーをやらせてほしい」と話しました。トップチームには多くのアカデミーで携わった選手たちがいましたし、アカデミーからトップチームまで一貫したサッカーができればクラブとしての意義だったり、他クラブにはない優位性も保てるのではないかと思いましたし。

そして2017年で4位になりACLプレーオフ出場権を獲得したことは、クラブとして一貫したサッカースタイルを確立しながら結果を出すというのが、だんだん形になってきている手応えがあったんです。それだけに、2018年シーズンの途中で監督を退任することになった時は、道半ばで断たれてしまった感が強くて、心残りでもありました。そこでもっと実力をつけなければこの世界では生きていけないということも実感しましたね。

レイソルを離れることになったあと、次のチーム探しをしなければいけなかったので、よりいろんな情報を得るために代理人をつけました。最初は監督として受け入れてくれるチームを探していましたが、コーチという選択肢も増やして、声をかけていただいたいくつかの中からカテゴリーや条件面などいろいろ考えた末、最終的に横浜FCのコーチとして行くことに決めました。

横浜FCは2018年、J2で3位になって昇格プレーオフに行き、惜しくも昇格を逃していて、2019年こそはとJ1昇格を本気で目指しているクラブでした。クラブ規模的にはまだそこまで大きくなくて、環境面含めても発展途上のクラブという印象でしたね。でも社長をはじめ、GM、フロントスタッフ、現場とそれぞれが一体感を持ってJ1昇格を目指していて、クラブ全体に熱気を感じたんです。それと横浜という街への地域貢献にも非常に努力してるクラブでした。

そこで2019年、タヴァレス監督の下、コーチとして支えながら悲願のJ1昇格を目指すリーグがスタートしたんです。けれど開幕からチームの調子が上がらず、勝ち点を伸ばすことができなくて13試合終えた時点で14位と、J1昇格を目指すチームとっては痛すぎるスタートダッシュ失敗でした。

そうしたら13節を終わったあとにクラブから「次の試合から監督でお願いします」と言われて、またコーチから昇格する形で監督を引き受けることになったんです。ただ、リーグもすでに3分の1が過ぎていて、ここからプレーオフ圏内の6位まで持っていくだけでも相当ハードルが高い、難しい仕事だと思ってました。

それにタヴァレス監督の志向していたのは、マンツーマンベースの守備から、イバ、レアンドロ・ドミンゲスのカウンターで勝負するスタイルで、自分が得意としやってきたスタイルと真逆だったんです。だからどうやってチームを立て直していくか悩みました。けれど、GMから「シモさんのスタイルでやってほしい」と言ってもらって、それで吹っ切れて監督を引き受けたんです。

 

■狂った歯車とカズ起用についての噂

それからチームの大改革ですよ。僕が採用したのは、システムはもちろんスタイルが真逆だったので、とにかくミーティングを増やし、サッカーを理解してもうところからスタートしました。

ご存知のとおり、横浜FCには、カズ(三浦知良)さんを始め、南雄太、松井大輔など、ベテランという枠だけでは言い表せないサッカー界のレジェンドが多く在籍していましたから、彼らの理解がなければスタイルの変換は難しいと思っていました。

そうしたら、本当に幸いなことに、選手たちがすごくいい反応をしてくれたんです。彼ら経験のある選手たちが賛同してくれたことで、チーム作りは思った以上にスムーズに進んでいったと思います。

ただ、最初は選手たちも大変だったでしょうね。なにしろ僕はボールを失わずに前進させたいので、ポジショニングやボールの置き所、体の向きなど、事細かく指導したんです。今までプロサッカー選手が当たり前のようにやってきたことを、今さながら細かく指摘されるわけですからイヤだったでしょうね。

それでも技術的に上達したり僕のサッカーを理解したりいていくうちに、ボールが回り始めて、チームが成長していくのを選手たちも感じてくれたと思います。そうやって得た自信が結果にも現れて、リーグ戦中盤にはプレーオフ圏内が見えてきたんですよ。さらに夏の補強で中村俊輔がチームに加わって、チームはさらに安定感を増しました。

そして最終的にチームは勝ち続けて自動昇格の2位に入り、悲願のJ1昇格を勝ち取ることができたんです。クラブ一丸となって戦えたことと、選手たちの努力がこの偉業を成し遂げた要因だったと思います。

それから古巣のレイソルと一緒に昇格できたことも何かの運命だったのかなと思いますね。自分個人としても、レイソル以外のチームで監督として結果を残せたこと、レジェンド級の選手たちとお互いにリスペクしあいながらチームマネージメントできたことは自信になりました。

ちょっと余談なんですけど、よく聞かれる質問で「カズさんをコンスタントに使ってくれとクラブから言われてるんじゃないか」というのがあるんです。

 

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