長崎サッカーマガジン「ViSta」

【コラム】OBの肖像:佐野裕哉(J.FC MIYAZAKI) ~黄金時代と天才と~

「全国地域サッカーチャンピオンズリーグ」。昔からのV・ファーレン長崎のサポーターには「全国地域リーグ決勝大会」、「全国地域サッカーリーグ決勝大会」、もっと言うなら通称である「地域決勝」の方が通じるかもしれない。

地域リーグから上位リーグの日本フットボールリーグ (JFL)に昇格するための大会で、週末の3日間で3連戦を行なうというスケジュールと、各地域リーグ上位チーム同士の対戦というタイトさから、毎年のように本命が崩れ波乱の起こる大会で「伏魔殿」と呼ばれたりもした。V・ファーレンも絶対本命と言われた2006年にこの大会で敗れており、2008年の石垣島大会でようやく突破したという大会だ。

今年も行なわれているこの地域決勝で、九州リーグ覇者『J.FC MIYAZAKI』は、見事に予選ラウンドを突破し、今日から行なわれる決勝ラウンドへ進出している。このJ.FC MIYAZAKIには、かつて長崎でエースと呼ばれた男が所属している。男の名前は佐野裕哉。高校時代から天才と呼ばれ、誰もがその資質を認めた選手である。

2008年1月の長崎を発つ直前の佐野裕哉

圧倒的な才能と技術を持ちながら、怪我のために力を発揮できずにいた佐野は、2006年にまだ地域リーグだったV・ファーレン長崎に加入。絶対的エースとして2シーズンに渡って活躍したが、チームの悲願であった「JFL昇格」を果たせぬまま、かつて指導を受けたことのある与那城ジョージ氏の求めに応じて、ニューウェーブ北九州(現 ギラヴァンツ北九州)に移籍した。北九州のエースとしてJリーグで活躍後はSC相模原で関東リーグ、JFL、J3でプレーし、2015年にJFLのFCマルヤス岡崎へ移籍。そして、今年、九州リーグのJ.FC MIYAZAKIへ移籍し、実に11年ぶりに九州リーグでプレーすることとなった。

そんな佐野に会いたくなって、久しぶりに九州リーグの会場を訪れたのは、まだ夏が本格化する前のことだった。久しぶりに会う佐野は、昔のまんまの日焼け顔で、久しぶりの九州リーグについてこう語った。

「連戦(集中開催:一つの県にリーグの全チームが集まって、2日連戦を行う九州リーグ独自のシステム)がある特殊な所(笑)。今年ももう沖縄に2回行って・・相変わらずだなと(笑)。これを10何年前にやって36歳の今もやってるのも何だかなって(笑)。まぁ、楽しかったですけどね」


今回、SC相模原所属時から実に6年ぶりとなる地域リーグだが、当時と変わらぬ背番号「10」をつけ、地域リーグレベルでは傑出した技術とセンスを生かしたプレーぶりは当時のままだ。プレー面だけでなく精神的にもにJ.FC MIYAZAKIのプレーにやりがいを感じているようでもある。

「今のチームも昇格したいって選手が多いし、ここから昇格することで見える景色も変わるだろうし。昔、長崎を裏切る形で、ジョー(与那城ジョージ)さんのところ(ギラヴァンツ北九州)へ行ったけど、今またジョーさんに呼んでもらって一緒にやっている。その中で、もう自分の終わりが見えてきている中で何を残せるかなって考えるから。ここのみんなを高いレベルでやらせてあげたいしね。自分が自分がと言うよりは、誰かのためにという感じ。それが長崎にいたときは岩本さん(岩本文昭:V・ファーレン長崎初代・3代・6代目監督)だったり、応援してくれる県民だったんだし」

佐野が言う「裏切る形」とは、2007年のシーズン後にギラヴァンツ北九州へ移籍したことを指す。2005年に発足したV・ファーレンは2006年にリーグ制覇を成し遂げ、全国社会人選手権大会でも優勝し、地域リーグの強者として君臨した。だが、JFLを懸けた地域決勝前に8名もの大量補強と、指揮系統の変更を強行し自滅するように大会を敗退。
加入時に「長崎がJFLに昇格できなければ引退する」と公言していた佐野が、周囲の説得に応じて「忘れ物を取りに行きたい」と現役続行を決断して挑んだ翌年も、リーグ開幕1週間前に監督を交代するという迷走の末にJFL昇格に失敗。このとき、当時、JFL昇格を達成した北九州で監督を務めていた与那城の熱烈なオファーに応える形で佐野は北九州へ移籍した。

上を目指すのはプロとして当然の話であり、長崎で佐野とプレーした選手らも「このカテゴリ(九州リーグ)にいるのが、不思議な選手なんだから仕方ない」と考えていたが、佐野にとってJFL昇格に失敗した長崎からの移籍は心に引っかかるものがあったのだろう。長崎県で開催された2012年の地域リーグ決勝大会にSC相模原の一員として参加し、JFL昇格を達成した佐野は、昇格にあたってこう言葉を残している。
「あの忘れ物は、あのときの長崎でなきゃ、永遠に取り戻せないんだと思う」
それだけ、当時の佐野は長崎に、チームに強い思い入れを持っていた。

「長崎は全て・・と言ったら言い過ぎだけど、自分の礎や骨格を作ってくれたチーム。長崎に居た当時のことは、今のチームで話すこともありますよ。どういうことがあって、どういう想いでプレーしてって。結局、JFLに昇格できなかったチームだけど、俺の中ではあのときの長崎が一番強かったチームだと思ってる」

佐野が長崎を去ってからもう11年が経つ。佐野が北九州へ去った翌年に長崎はJFLに昇格し、それから4年をかけてJリーグ昇格を達成した。V・ファーレンがJリーグクラブとなったことについて、佐野は「自分がいた所が上がってくれたのは凄く嬉しい」と語る一方で、「自分がいた頃とはまったく違うチームだし、自分のことを憶えてくれている人の数ももう少ない」と遠くに感じることもあると言う。だが、「つながり」が消えているわけではない。この日の試合会場には佐野の姿を見るためだけに、長崎から昔を知るサポーターが大勢駆けつけていた。佐野自身も長崎所属時の監督であった岩本氏がクラブを退職したときには、岩本氏に電話を入れて励ましているし、ときおり長崎に来ることもあるという。実際、今年の九州リーグが長崎では試合がないことに「一番ガッカリした(笑)」とも笑っていた。

私は個人的にV・ファーレン長崎が誕生した2005年から佐野が去った2007年までを「黄金時代」と呼んでいる。この3年間は苦しいことが多く、お金も施設も知名度も人気も何もない時代だった。練習場は土のグランウンドで、選手たちは仕事が終わってから集まり、20時から練習が開始。予算がないため、照明は半分しか点けられず、終了時刻になって照明が落ちると車のライトを頼りに後片付けをした。選手たちは冬でも公園のベンチで着替え、夏には公園の水場でポリバケツに水を汲み頭からかぶって暑さをしのいだ。

2005年から2008年までの間、チームの主な練習場だった諫早市サッカー場(当時)

それでも、最高に楽しい時代だった。チームに関わる全員が子供のように「Jリーグ」という夢を夢中になって追いかけていた。何も無いけれど、夢だけは溢れていた。それは思春期のようなもので、クラブ黎明期だからこその時代だったのだろうと思う。今にして思えば幻を追いかけるような日々だったのかもしれないが、未来がいつも光輝いているように感じられた時代は、今も特別な記憶となって残っている。その後、次第にV・ファーレンは現実と向き合い、黄金時代の輝きは一部を残してリアルな制度と数字と変わり、クラブは大人として、夢を見る側から夢を与える側へと変わっていくのだが、その中でも佐野裕哉は当時の黄金時代を代表する選手の1人であり続けた。

長崎在籍時の佐野裕哉

恐らくだが、「天才」と呼ばれてきた彼は、そのプレーだけで周囲に夢を与えることができていたのだと思う。だからこそ、彼自身は夢を見る側から変わる必要がなかったのではないか?変わらないからこそ、彼は今も当時の匂いを強く残しているのではないか。

最後に当時を知る長崎のサポーターに何かメッセージがないかを訊ねてみた。
「感謝の気持ちしかない・・。ありがとう。それだけです」と答え、「言葉が長くなると嘘っぽく聞こえると思うんで・・」とだけ付け加えた。地域リーグの試合では珍しいインタビューから戻ってきた佐野を、試合を終えてクールダウンしている若い選手がからかう声と、それに「うるせーよ(笑)」と言い返す佐野の声が聞こえる。それは11年前のV・ファーレンでもよく見た光景だった。きっと彼は、長崎を離れてからもそうやってボールを蹴り続けてきたのだろう。そのボールがいつ転がるのを止めるのかは、本人にすらわからないが、できるだけ長く現役を続けて欲しいと思わずにはいられなかった。

reported by 藤原裕久

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ