長崎サッカーマガジン「ViSta」

【無料掲載】東日本大震災から8年目の今日、手倉森誠が想うこと「被災地の人間として、監督として、東北人としての矜持」

2011年3月11日の東日本大震災から8年目の今日、手倉森誠監督は長崎で練習の指導をしていた。8年前と違う場所、違うチームだが、8年前と変わらず、目の前の試合のことを考えている。表面上は特別に変わった雰囲気は感じられない。だが、練習後に3.11から8年目を迎えた気持ちを聞くと、静かに、丁寧に、そしてゆっくりと、8年前のこと、そして、8年目を迎えた思いを聞かせてくれた。

【震災のとき】

震災の瞬間は仙台のクラブハウスにいたんだよ。ミーティングの予定だったんだけど、それをキャンセルして、俺だけ残って、次の対戦相手であるグランパスの映像を見てた。震災のあとテレビがつかないからさ、車の中でワンセグで津波の映像を見た時に「これはヤバイな」と思ったね。本当にもうサッカーはできないなって。その後もさ、女川とか打ち上げられた魚が腐って、虫がたかってて・・・アレはしんどかったな。

だから、震災が起こったあと今シーズンはもうリーグ戦はないなって思ったよ。でもさ、そのときにサッカー界の横のつながりを感じたんだよ。俺、あのときほどJリーグクラブで良かったと思ったことはないね。他のクラブがもの凄く手を差し伸べてくれるんだよ。一般の人たちはそうやってもらえる状況じゃなかったから、俺は仙台の選手たちに言ったんだよ、「お前たちは恵まれているんだ」って。Jリーグというつながりのおかげで、他のクラブやサポーターが物資をベガルタに送ってくれて助けてくれる。それを感じた時に、このつながってくれている人たちのためにも、早くJリーグを再開しないといけないって思った。

被災地である俺たちが動かないと、Jリーグもサッカー界も動けないんだよ。俺は、サッカー界は早く動き出さないといけないって思ってたからさ。Jリーグと日本代表のチャリティーマッチ(東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!(2011年3月29日))もさ、開催にあたってはいろんな意見があったんだよ。でも開催したらあれだけたくさんの人たち(40,613人)が集まった。それ見たら、サッカーやらなきゃなと思ったよ。リーグ再開までの準備期間は凄く短いけれど、スタート(再開日)を決めてもらわないと、いつまでも動き出せなかったかろうね。

4月23日ってリーグ再開の日が決まって、再開までの短い期間に何かを起こそうってトレーニングをやるんだけど、2部練習ができないんだよ。倒壊した家の片付けとかもあるし、また地震がくるかもって不安な家族と一緒にいさせてやりたいしさ。だから1部練習なんだけど、そのときにさ、被災地からサポーターが来るんだよ。それ見たらさ、俺たちも被災地に行かなきゃだろうって。それでさ、午前中に被災地に行って午後からトレーニングしたり、午前中にトレーニングしてから被災地に行ったりしてさ、みんなでボランティアやったりね。よくやってたなと思うよ。

【8年が過ぎて】
今朝、起きてから女房とLINEでいろいろ語ったんだけどね、あれから8年経って、よくここまで来たなって話したよ。あのときのショックや衝撃っていうのはかなり大きくてね、2人で思い出すよねって話をしたよ。自分としては、3.11という日に仙台にいなくて、家族といないことで、一瞬だけど俺は今、長崎に居ても良いんだろうかって思ってしまう自分もいるよ。

テレビで震災から8年目という報道をやっているのを見ると、日本中が忘れていないんだなって感じるよね。あの出来事を忘れることはないけれど、あのときに何を感じていたかなって考えることがあって、あのとき、当たり前の日常が当たり前じゃなくなったと思ったのを、もの凄く憶えているよ。だから、それから8年が経つけれど、自分は生かされている、普通に生活させてもらっているって思わなきゃいけないし、日々感謝して生きていかないとなって、女房とLINEで確認し合いましたよ。

この8年っていうのは、短かかったような感じもあるけれど、長く経ったなという気もするよね。今も被災地には手付かずの所もあるから、「8年経っても・・・」という思いもあるけれど、前に進まなきゃいけない中で、物事を動かしてきた人たちにとっては、しっかり走ってきた8年っていうね。個人的に「被災地の希望の光になる」と駆けて続けて、それに向かってエネルギーを注いできたつもりの自分にとっては、8年が経ったんだなっていう感じがするよ。

でもまだ足りていない。東北人としてさ、「東北を飛び出して今は他の地域で頑張ることで東北人の生きがいとか希望になりたいけれど、俺はなれているのかな」って日記にも書いたんだけどね。実際に、そのつもりでやっているよ。こないだ(2019年J2第3節)、水戸に負けたとき(3月9日)、敗戦して3月11日を迎えるのが悔しくてね。明るいニュースを届けられなかったっていうことが悔しくてさ。だから俺は勝たないといけねぇんだ!俺はそういう監督なんだって自分に言い聞かせて、今日を迎えていますよ。ここを区切りにね、3.11とリーグ戦の負けを俺の中では一つの区切りにして、ここからまた頑張らないとね。
(了)

「俺さ、震災の翌日にさ、何かやらなきゃって思ってやったのがさ、クラブハウスの掃除なんだよ(笑)。翌日だよ、家族と一緒にいてやった方が良いのに、そばにいなくてさ、クラブハウスの掃除やってんだから(笑)」
話の最後、手倉森監督はそう言って笑った。話の最後を笑顔で終えるのは、いかにもポジティブな手倉森監督らしい。そして、去り際にもう一言を付け加えた。
「だって俺さ、監督だから!」
そう、手倉森誠は監督である。そして、監督として戦いながらも、8年前のこと、東北への想いを今も忘れずに西の果てから、被災地へ祈りを胸に走り続けている。

reported by 藤原裕久

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