長崎サッカーマガジン「ViSta」

【コラム 】3.11で思い出すこと。~2011年のV・ファーレンと東日本大震災と・・~

2011年の東日本大震災から9度目の3月11日を迎えた。被災から9年がたち、ときどき過去のことのように思ってしまうが、実際に被災地の復興はまだ途上だ。設備や街並みが元に戻ったとしても、なくなったものや失ったものが戻ることはない。被災した当事者でない私には、震災の本当の部分は語れない。せめて話を聞き、知り、それを伝えていくしかないのだが、この大災害でV・ファーレン長崎がどんなシーズンを過ごしたかは語ることができる。今回はその辺の話をしてみたい。

2011シーズン当時の画像。ヴィヴィくんは前年の2010年に誕生した

2011年当時、V・ファーレン長崎はJリーグではなく日本フットボールリーグ(JFL)に所属していた。チームの代表取締役が小嶺忠敏社長(現 長崎総合科学大学附属高校サッカー部監督)から、宮田伴之社長に変わった最初のシーズンだった。

当時の長崎は、2014年長崎国体への準備で長崎県総合運動公園陸上競技場が改修に入るため、2011シーズンはJリーグ入りを断念しなければならなかった。宮田社長最初の大きな仕事は、皮肉なことにJリーグを目指さないという方針の発表だったのだ。

当時は練習場もなく、ソフトボール場でトレーニングも行った

ちなみに長崎市の長崎市運動公園(かきどまり)陸上競技場も、長崎国体へ向けた改修で4月までしか利用ができず、5月以降の公式戦は島原市営陸上競技場、佐世保市総合グラウンドで試合を行うしかなかった。前年で原田武男(現 V・ファーレン長崎U-18コーチ)さんら、創設時からチームを支えた功労者もプロを引退。チームも多くが一新されていた。

その中で掲げられたキャッチフレーズは「初心回帰」。いろんなものがリスタートになるからこそ、発足時の理念や人、思いを大事にしていこうという意味が込められていた。

当時の監督は佐野達さん(現 セビージャFCサッカーアカデミー福島 ゼネラルマネージャー)、コーチは堺陽二(現 ディオッサ出雲F.C監督)で、佐野体制の2シーズン目。Jリーグ参入を目指さない年ではあったが、クラブは「JFL優勝とフェアプレー賞を目指す」と公言していた。

3月13日からのJFL開幕へ向けてチームは強化を進めていた。2月にはサガン鳥栖や大分トリニータ、福岡教育大学、ギラヴァンツ北九州などとトレーニングマッチを行い、開幕前ラストの九州サッカースポーツカレッジとのトレーニングマッチにも3-0で勝利。佐藤由紀彦(現 FC東京コーチ)、有光亮太(現 Club Atletico CELESTE 代表)、中山悟志(ガンバ大阪アカデミースカウト)、岩間雄大(現 栃木SC)などを擁したチームの実力は、リーグトップレベルだった。

当時のチーム力はリーグ屈指だった

だが、九州サッカースポーツカレッジとのトレーニングマッチから6日後、東日本大震災が起きた。被災によりJFLの開幕戦は延期。予想を超える被害に「今年はもうリーグは無理じゃないのか」「クラブはもたないのでは?」という声もあがった。当時の長崎は経営が本当に苦しく、宮田社長が就任した第一の理由も経営再建だったので、震災による影響は深刻だった。宮田社長は後に「あのときは、これで(クラブは)つぶれるのかなと思った」と語っている。

当時の私は、クラブ関係者・サッカー協会関係者・サポーター・支援企業などで構成され、クラブ主導で立ち上げられた外部支援組織である「V・ファーレン長崎支援会」の運営委員長をやっていた。この活動のために、前年を最後にサポーター団体を退団していたのもあって、時間があったので、クラブと連絡を取って被災地支援活動を行った。

2011年開幕前に、支援会として長崎県美術館で行った歴代ユニフォーム、トロフィー、グッズ、ポスターなどを展示した記念展

3月27日に三菱重工長崎SCとトレーニングマッチを行うということで、会場でクラブが募金、支援会が義援物資の募集を呼びかけたりもした。わずかな告知期間と少ない人数での活動だったが、2時間もたたずに段ボールで30箱近くの物資が集まり、本当にありがたかったのを覚えている。

当日に集まった義援物資

当日に集まった義援物資

当初、JFLは4月16・17日の開催を想定したが、Jリーグの打ちだした4月23・24日開幕に合わせることになった。そのため、4月いっぱいしか使用できない長崎市運動公園(かきどまり)陸上競技場での試合は1試合のみのシーズンとなった。

2011シーズン開幕戦となったJFL第7節vs.FC琉球の観客は2,851人。シーズン最多の集客は本来ならリーグ最終節だったJFL後期第17節の栃木UVA戦で、観客は3,187人。被災地のチームであるソニー仙台の試合は、リーグ前期は全て中止。延期分の前期6試合が「震災災害復興支援試合」となり、リーグ戦の試合としてカウントされず、後期のみがカウントされた。

4バックで戦った長崎は15勝11分7敗の5位でリーグを終了。リーグ最少の敗戦数だったが、守備に弱さがあり大敗も経験する一方で攻撃力が高く、特にFW有光亮太はリーグ2位の19得点をあげ、ベスト11にも選出された。J昇格という目標がない中では十分に頑張ったといえるだろう。

攻撃型だった当時のチーム

当時の絶対的な得点源として活躍した有光亮太さん

経営面では、相変わらず苦戦していたが、その年の11月に支援企業の助力を得て増資を達成した。だが増資の中心人物で、常にクラブを支えてくれた当時の長崎商工会議所会頭で、V・ファーレン長崎後援会会長でもあった松藤グループの松藤悟氏の逝去という悲しいできごともあった。クラブ存続の大恩人である松藤悟氏の逝去について、宮田社長はJ2参入時に「松藤会長に、Jリーグ昇格を見せることができなくて、申し訳ないし、悔しい。本当にV・ファーレンの昇格を期待してくれていたんで」と悔やんでいたのが忘れられない。

こうしてチームとクラブは、激動だった2011シーズンを終えた。この翌年、長崎はJFLで優勝を達成しJ2への参入を決めるのだから、混乱の中でも耐えたことが生きたと言えるかもしれない。東日本大震災という未曽有の災害で始まり、その影響で混乱しながらも必死に耐えて、翌年にバトンをつないだ・・そんな年だったのだろう。

そんな思いがあるせいか、3月11日が来て東日本大震災のことを考えると、今も頭の中では、当時の混乱ぶりと先の見えない不安感がよみがえる。たぶん、それが私にとっての3月11日であるのだろうし、だからこそ、東北で起きたあの災害を忘れることがないのかもしれない。そういう意味で、私にとって3月11日は、忘れてはいけないものを思い出させてくれる日になっているのだと思う。

これを読んでいる方も9年前の3月11日を、少し思い出されてみてはどうだろうか。

ちなみに、この後も長崎は大変なことが次々と待ち受けているのだが・・それはまた別の機会に話をしたい。

reported by 藤原裕久

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