ニイガタフットボールプレス

【無料記事】ことばでワンツーvol.2~早川史哉選手との対話~③「まだ僕はチャレンジできるんだ」

いま、早川史哉選手はどこに立っていて、どのように前に進もうとしているのか。28番の現在地に向き合う「ことばでワンツー」。これは、史哉選手と対話をしながら歩もうとするインタビュー企画です。

②「白血病が見つかるまでの1週間」

■生き方、方法はいろいろ考えられる

――3年前、名古屋で史哉選手が体調不良を訴えたとき、クラブのメディカルスタッフが精密検査を受けるべきだと即断した背景に、マルセロ元フィジカルコーチの件があったとうかがいました(2010年5月に急性白血病と診断され、翌月ブラジルに帰国。12年5月に逝去)。サッカーの現場では整形外科的な施術が中心のメディカル陣ですが、マルセロさんが病気になった後、内科的な知識も必要だと定期的に勉強会を開くなどの取り組みがあったそうです。

「それは初耳です。でも、確かに日暮さん(当時の日暮清ヘッドトレーナー、現横浜FM)からすぐに電話が掛かってきました。名古屋戦の翌日がオフで、新潟の病院に行って検査をしたら血液の数値がちょっとおかしい、と。それでいったん帰って、で、翌日の朝、日暮さんから電話が掛かってきたんです。言われたのが、『史哉、今日は練習しなくていいから、今から別の病院に行って精密検査を受けてこい』。そのとき自分はまだ、風邪か何かだと思っていたから、何でそんなにナーバスになってるんだろうと感じましたね」

――朝、ちょうど練習に出かけるタイミングでの電話だったんですね?

「当時は寮に住んでいたんですけど、準備をして、さあ今から練習だというところに電話が掛かってきたので、『なんだよー』と言いながらベッドに仰向けに寝っ転がったのを今でも覚えています」

――前日の病院の検査について、史哉選手から日暮さんに連絡を入れていたのですか?

「いや、自分は話していないので、病院とメディカルスタッフとのコミュニケーションがあって、それで日暮さんの電話だったんだと思います」

――再検査の結果、急性白血病であることが分かりました。その診断を受けて、生きることについて考えたのではないでしょうか。

「多少は考えました。でも、思いつめるというわけではありませんでした。“もうサッカーができなくなるかな”とか、“いろいろな可能性が潰れるかもしれないな”とか考えることもあったし、ちょっと体がきついときは、“もしかしたら、このまま……”と思うこともありました。でも、説明はつかないんですけど、自分はまだチャレンジできるという感覚があった。今まで育ってきた環境だとか、培ってきたものがあって、そういう直感につながったのかもしれません」

――感覚として、確かなものがあったんですね。

「ここから急激に大ごとになることはないだろう、というのを自分は感じていて。しばらくして、神田さん(神田勝夫強化部長)と田村さん(当時の田村貢社長)が病院に来てくれて、クラブとして最大限バックアップすると言っていただきました。そこで初めて、プロサッカー選手にまた戻れる可能性が現実味を持ったんです。それまではどう生きるか、というところだったのが」

――生きる。

「思いつめることはなかったとはいえ、病気になって、やっぱりまずは生きることについて考えました。生き方、方法ですね。俺は本当にサッカー選手に戻れるのだろうか。無理なら指導者になることも当然考えたし、先生になるのかな、それとも会社員になって、サッカーとは関係なく生きていくことになるのかな……とか。もともと自分は、いろんな選択肢を持ちながら進んできたので、悩むというよりは、考えましたね」

――新潟ユース(現新潟U-18 )から筑波大、筑波大から新潟と史哉選手が歩んできたのが、まさにしっかり考え、選択しながらの道のりですものね。

「とはいえ、白血病になって、そこから生きる一つの方法としてプロサッカー選手というのは、なかなか考えられませんでした。だから神田さん、田村さんが来てくれて、クラブとしてサポートしたいという話を聞いて、涙が止まりませんでした。俺、まだプロ選手としてサッカーをやらせてもらえるんだ、というのがはっきりして。ものすごくうれしかったし、だからこそもっと生きたい、チャレンジしたいという気持ちがわき上がってきました。それで病気を公表しようと思ったんです」

――3年前の6月のことです。

「そう。で、公表文を考えながら何度も泣いて、公表されたものをネットで見て、また泣いて、という(笑)」

――コツコツと、ですね。

「地道に、自分らしく」

https://www.albirex.co.jp/news/49107/)

つづく

[プロフィール]はやかわ・ふみや/ DF、28番、1994年1月12日生まれ、新潟県新潟市出身。170cm、68㎏。小針レオレオサッカー少年団→新潟ジュニアユース(現U-15)→新潟ユース(現U-18)→筑波大学を経て、2016年、新潟に加入。開幕の湘南戦にCBとして先発出場、リーグ戦3試合、カップ戦2試合に出場し、4月、急性白血病と診断された。昨年11月12日、契約凍結が解除された。

text by 大中祐二

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