ニイガタフットボールプレス

【頼もう、感想戦!feat.成岡翔】~明治安田J2第24節・町田戦~vol.3「史哉のおかげで、俺は最後の2年間サッカーを続けられたんです」

ピックアップしたゲームを選りすぐりの論客と語り尽くします。今回は、シーズンを折り返し、いよいよチームのエンジンがかかってきた印象の第24節・町田戦について、成岡翔さんとの感想戦。3回目は、早川史哉選手の「あのときと今」についてです。

Vo.2はこちら

■セオリー無視の魂のゴール

――このたび、ベースボール・マガジン社から早川史哉選手との共著『生きる、夢をかなえる 僕は白血病になったJリーガー』を出版して、成岡さんにもツイッターでご紹介いただきました。本当にありがとうございます。

――成岡さんと史哉選手との関りで忘れられないのが、2016年の大宮戦でのゴールです(ファーストステージ第15節〇1-0)。今回の町田戦の感想戦で、泥臭いプレーは新潟で身についたという成岡さんのお話がありましたが、まさに泥臭く押し込んだゴールでした。

「右サイド、豪(端山豪、現シドニー・オリンピックFC)がDFと並走して、最後は滑りながらゴールラインぎりぎりでボールを残して、すぐに置き上がってペナルティエリア内に入ってきて出したクロスに、ニアに突っ込んだんですよ。俺と山ちゃん(山崎亮平、現柏)の2人で。

――どちらもそこに入ってきた。

「最初、俺は山ちゃんのちょっと後ろだったので、普段なら絶対、あそこには入っていきませんでした。山ちゃんがニアに入ろうとしているのが分かったし、セオリーなら俺はファーにスッと逃げるような動きをするところだった。

だけど、ほぼ同じ位置に突っ込んでるんです。それはやっぱり今でも思うけど、絶対に勝ってやる、何なら俺がゴールを決めて勝ってやるっていう思いがあったから。

俺自身、けが明けだったんですけど、とにかく気持ちが入っていましたね。入り過ぎていました。今でも映像を見返すと、喜び方がすごくて自分でも驚きます。高1のジャンピングボレーに次ぐくらい、喜んでる(笑)」

――伝説のジャンピングボレーに匹敵する喜び!

「感情が抑えきれませんでした。とても思い入れのあるゴールです」

――絶対に勝ってやるというのは、史哉選手のために、というのも大きかったと思います。

「もちろん。それが大前提でした」

――大宮戦が2016年6月11日。その2日後に、史哉選手はクラブの公式HPを通じて自身が急性白血病であることを公表しました。

「試合の時点ではまだ発表されていなかったので、インタビューで俺もそのことについて話せなくて」

――成岡さんが思わず涙を流す場面もありました。

「それをインタビューで突っ込まれて、どうやって返そうかな? と考えましたね。『試合に勝てなかったし(9戦勝ちなし)、自分自身、出れなくて』と何とかごまかしました」

――史哉選手の病気について、どういう形で選手たちは知ったのですか?

「練習前にみんなが集められて、達磨さん(吉田達磨元監督、現シンガポール代表監督)から話がありました。泣いている選手もいたし、達磨さんも泣いていたし。そのあと練習だから、『集中してやろうぜ』とみんなに声を掛けましたが、俺自身、もちろんすごくショックでした」

――僕がその光景を見ていないということは、練習が非公開のとき、つまり大宮戦の数日前だったわけですね。

「そうだと思います」

――史哉選手の状態が決して軽いものではないというのは、選手たちも薄々察していたと思います。実際に急性白血病だと知ったのが、そのときだった。

「よく聞く病名ですけど、知識がないからピンと来なかったというのが正直なところでした。それまで選手たちも、大丈夫そうだとか、とても大変らしいとか、いろいろ話しはしていたんだけれど、そこに来てのその病名で。俺も混乱しました。白血病が血液のがんということは理解していましたし」

――しかも史哉選手は開幕戦に先発してプロデビューを果たし、その後もずっと試合に絡んでいたわけですからね。

「史哉には申し訳ないんだけど、当時、俺は全然、気付きませんでした。そんなに体調が悪かったんだというのを、本を読んで初めて知りました。パフォーマンスが落ちてきたのは、プロ1年目で開幕から試合を重ねてきて、ずっと張りつめていた疲れから調子を落としているんだろうとばかり思っていたから。まさか史哉の中で、そんな大変なことが起きていたとは……」

――それは史哉選手本人が、一番そうだったと思います。見方を変えると、それくらい史哉選手の試合でのプレーには説得力があった。

「達磨さんが求めるものと、史哉の持っているもの、プレーが一致していたし、機能していると俺も感じていました。そもそも史哉が筑波大学に在学中、清水キャンプに練習参加したときから、すごくいい選手だと俺は思っていたし、プロになって試合に出続けることに対しても、全然、違和感はなかったです」

■その手術を受けたら現役は続けられない

――そして骨髄移植、闘病、リハビリを経て、去年10月5日、鹿児島戦での復活があって、史哉選手は今季もここに来て試合に絡むようになってきました。町田戦では後半45分間プレー。左サイドバックでのパフォーマンスを、どう見ていますか?

「(本間)至恩との関係性がとても良かった。2人とも後半の最初から出てきて、史哉がすごく気を使ってプレーしているのを感じました。至恩がサイドに張って、高い位置で起点を作って、それに対して史哉はインサイドに入っていく。至恩をうまくサポートしていましたね。前半と後半で左サイドの攻め方が大きく変わったのも、面白かったです」

――あれは相手は嫌だったでしょうね。

「そう思います。相手からすると、『え、そういうことしてくる?』って嫌になったと思う(笑)」

――前半、何度も左サイドを突いた荻原拓也選手の馬力とスピードも脅威だったと思いますが、後半、至恩選手の細かいタッチのドリブルも、かなり対応が難しかったはずです。

「荻原選手と至恩がサイドで縦関係を組めば、さらに攻撃的になるかというと、必ずしもそうではないと思います。縦関係の組み合わせはとても重要ですが、町田戦は史哉と組んだからこそ、至恩の良さが引き出された部分がかなりありました。至恩が仕掛けた後のカバーも含めて良かったです」

――守備で史哉選手がボールを取りに行く鋭さ、力強さが増してきているのも感じました。

「スライディングでパスカットに行くシーンを見て、『鋭いな、少しずつ戻ってきているな』と感じました。史哉はもともと予測する能力が高い。そこにスピードとパワーが伴ってきました」

――そしてこれはずっと主張されていますが、成岡さん的にはボランチでの史哉選手を見たいんですよね?

「本当にね、ボランチでプレーしてほしいんですよ、史哉には。アルベルト監督にお願いしたいくらいです(笑)。あいつが清水キャンプに練習参加したとき、当時はボランチで、プレーもすごくよかった。俺は、史哉がもっと相手ゴール前でプレーに絡むところを見たいんです」

――町田戦も1回、ペナルティエリア深くに入ってシュートを打てそうな場面がありました。

「ありましたね。ゴール前の崩しに加わる、自ら点を取るという部分も出てきたら、また一つ選手としてレベルアップするはずです」

――『生きる、夢をかなえる 僕は白血病になったJリーガー』(ベースボール・マガジン社)を読んだ感想を聞かせていただけますか?

「とても読みやすい本でした」

――ありがとうございます!

「史哉の物語があって、それに関わる人たちの思いが絡んでくる本の構成がよかった。お互いの気持ち、考えていることが分かるし、とても興味深かったです。フチさん(片渕浩一郎元監督、現鳥栖ヘッドコーチ)とか、野澤さん(野澤洋輔さん、現新潟営業部)とか、よく知っている人が登場するから、より親近感も増すし。特にフチさんのところですね、読んでいてグッと来たのは。フチさんらしいなあ、と」

――どのあたりに、それを感じたのですか?

「キャンプ中、池江璃花子選手の病気(急性白血病)が公になったとき、史哉のことを思いながらも、史哉がやるべきこと、伝えるべきことを尊重する。史哉を守りつつも、しっかり史哉を導いていく。そこが本当にフチさんらしくて、読んでいて、泣きそうになりました。

フチさん、去年、俺が引退したときにわざわざ電話をかけてきてくれたんですよ。知らない番号からかかってきて、誰だろう? と思って出たら、『片渕です』って。うれしかったなあ。この本のインタビューを読んで、史哉のことをすごくいろいろ考えて行動していたことが分かりました」

――指導者としてのフチさんの特徴、キャラクターが、ひとことひとことに、とてもよく表れていますよね。

「前の本でも史哉の知らない部分、どういう闘病生活だったのかを読めましたけど、今回はそれに加えて周りの人たちの思いを知ることができました。それで俺自身、当時のことを、また思い出したり。

俺は、史哉に助けられた部分もあるんですよ。他にもそういう人はたくさんいると思う。史哉の復帰に。

俺たちは本が出るまで詳しいことをうかがい知ることができなかったけれど、この本もそうですが、読んだ人はすごく勇気づけられると思います。ただの美談で片付けちゃいけない、知っておくべきことがたくさん書いてある。

俺、新潟で現役引退しようと思ったんだけど、そのあと2年間、相模原と藤枝で続けたんですよ。だけどマジで脚が痛くて、『無理だ、サッカーをやめたい』っていうのが口ぐせになるくらい。半分冗談で、だけど実際、本当にめちゃめちゃ痛くて。もう無理だとずっと思いながらの2年間でした」

――新潟での最後の方も、かなりひざが悪かったですからね。

「そう。史哉の病気が分かったくらいから、自分も左ひざがどんどん悪くなっていって。だけど相模原と藤枝では、ひざよりも股関節の方が悪かったんです」

――ひざに加えて、股関節も。

「新潟のときも年に数回、股関節が痛くてヤバいときがありました。メディカルスタッフに支えられながら、何とか耐え忍んでいましたが、相模原に行ってから、ひざが悪いのも股関節の痛みをかばってのものだということが分かったんです。変形性股関節症といって、『これ、障害者手帳をもらえるレベルだよ。手術して人工関節にしないと治らないよ』と医者からは言われました」

――でも、その手術を受けたら現役は続けられないですよね。

「だから当時は手術するつもりはありませんでした。引退して今後は筋肉が落ちて、歩けなくなる可能性があるから、もしかすると手術を受けるかもしれない。何とかごまかしながらプレーしていましたけど、現役最後の2年間は本当に痛かったですね」

――藤枝東高校に始まり、藤枝MYFCに終わる今回、町田戦の感想戦でした。

「あまりに痛くて、それでも最後の2年間、サッカーを続けられたっていうのは、やっぱり史哉の出来事があったから。自分はまだやり切っていないのに、ここでやめるわけにはいかないとずっと思っていましたから。さらに2年サッカーができたし、しかも最後に地元の藤枝に戻ってくることができた。去年、俺が心の底からやり切ったとすっきりして現役引退できたのは、史哉のおかげ。史哉に助けられたからなんですよ」

【プロフィール】成岡翔(なるおか・しょう)/1984年5月31日生まれ、静岡県島田市出身。藤枝東高校から2003年、磐田に加入。11年に福岡に移籍し、13年、完全移籍で新潟に加入した。サイドハーフ、ボランチ、そしてFWでたぐいまれなサッカーセンスを発揮し、新潟で最初のシーズンは全34試合に先発出場。在籍した5シーズンでリーグ戦113試合に出場し、10得点を挙げ、17年にはJ1リーグ通算300試合出場を達成した。18年、J3のSC相模原に移籍。19年、J3の藤枝MYFCに加入し、11月5日に同年シーズンでの現役引退を発表した。今年はサッカースクールSKY(https://www.sky-soccer.net/)での指導が主になる。

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