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インタビュー|自分にしか見れない景色を見てきた男のストーリー【前編】記事転載

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◆ターニングポイント、ボランチとしての適性

当時は、契約選手たちと学生選手たちの実力差がかなりあって、学生選手が試合に出場するケースは稀でした。それでも大きなチャンスだったので、プレシーズンから必死にやりました。契約選手の中にはJリーグからきた選手や、アジアにアピールしにきた選手がいて。実際に当時の契約選手たちの大半が、その後アジアでプロキャリアを積んでいます。

僕自身は、日本の3軍からやってきた学生選手でしたので、最初はまったく期待されていませんでしたが、チーム練習が始まってから少し状況が変わってきたんです。当時の鳴尾直軌監督が、契約選手も学生選手も分け隔てなく、ヤル気があって頑張れる選手を使う方針だったんです。

JAPANサッカーカレッジに入学してから、僕はどういう状況下でも必死に戦うプレースタイルに変わっていました。シンガポールにきて契約選手たちに混じっても、絶対にプレーでは負けられないと覚悟を決めました。これが鳴尾さんの目に留まったようで、Sリーグの開幕戦から使って貰えたんです。

その後も、試合に出たり出なかったりが続きましたが、最後のクールはすべて先発フル出場しました。それもあって、2年目もシンガポールでプレーするように、と是永大輔代表からお話しを頂き、そのまま残ることになりました。

学生選手として迎えた2年目は大きなターニングポイントになりました。監督に杉山弘一さんが就任されて、それまで知らなかった多くのことを学びました。その上でボランチとして使って貰えるようになりました。ボランチの選手としての適性は、杉山さんが見出してくれたんじゃないかと思っています。

3年目は、JAPANサッカーカレッジを卒業して契約選手としてプレーしました。学生選手がそのまま契約選手になったのは、僕が初めてのケースだったと思います。この頃にはSリーグ選抜にも呼んで貰えるようになっていました。そして、4年目の2012年シーズンが終わった時点で、ローカルクラブから獲得のお話しがくるようになり、移籍を検討することになったんです。

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Sリーグのローカルクラブへの移籍劇

いくつかの問い合わせがチームに届いていたようですが、具体的なオファーに進展したのはウッドランド・ウェリントンだけでした。それまでの4シーズンで何度も対戦していた相手なので、プレーのイメージは湧いていましたし、監督さんが僕を評価してくれていたことは、風のうわさで耳に届いていました。

結局、他のお話しが消えて行ったこともあって、ウッドランドに絞って交渉して貰いました。小さなクラブだったので、条件は良くなかったのですが、次に行く場所を決めないと、僕の場合はその先はないだろうから、提示されたハーフシーズンの契約書にサインしました。

半年後には無職になる可能性もありました。でも、結果を出せば契約を延長してくれると信じて必死にプレーしました。その後、残りのハーフシーズンと来シーズン終了までの契約を勝ち取りました。しっかりと活躍を評価してくれて条件も改めて貰えたので、僕は今後もできるだけこのチームで続けて行こうと思っていました。

この頃にもSリーグ選抜に呼ばれて、マレーシアのスランゴール州選抜との交流戦に出場しました。6万人の大観衆で埋まったスタジアムでプレーしましたし、サッカー選手としての価値を高められたと思います。でも、ウッドランドの財政が悪化したことと、Sリーグ自体が縮小する方向に向かったことで、チームがSリーグから突然撤退してしまったんです。

2シーズンだけの在籍でしたが、僕はウッドランドというチームで、プロサッカー選手として生きる術のようなものを身につけることができたと思っています。チームにいる日本人は僕だけという環境で、コミュニケーションはすべて英語に、ピッチでもこれまで続けてきた日本風のサッカー感が通用しなくなりました。

サッカーの強くない国で助っ人外国人としてプレーするには、日本風のサッカー感を落とし込むのは本当に難しいと思います。生きるためには監督がやろうとする戦術を受け入れて、契約を全力で全うするべきです。実際には、そうじゃないんだよなぁと思うことはたくさんありましたが、僕は生きて行くためにチェンジしました。(つづく)

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