フットボールフィリピン

インタビュー|母親の祖国で現役を続ける元Jリーガーの軌跡【前編】記事転載

元記事:https://equalizer11.com/2018/10/04/philippine-football-2/

掲載日:2018年10月4日(EQUALIZER)

photo via davao aguilas bellmare fc

成田空港に勤務する日本人の父と、フィリピン人の母を持つ大友慧は、地元の街クラブでサッカーを始めた。ある時、横浜フリューゲルスが地元の街に普及活動に訪れる。大友は初めて生で見るJリーガーの勇姿に憧れて、将来の夢を抱いたのだと言う。

地元の小学校を卒業した大友は、鹿嶋市内の中学校に入学すると同時に、鹿島アントラーズのジュニアユースに加入する。Jクラブの下部組織で本格的な指導を受け、高校進学と同時にユースに昇格する。大友の一学年上の5人がトップ昇格していたこともあり、夢のプロ入りは現実味を増していた。

しかし、大友が高校卒業後に入団したのは、ひとつ下のJ2を主戦場としていたベガルタ仙台だったーーー。当時のプロ入りの経緯から、東南アジアのクラブを渡り歩き、母親の祖国フィリピンで現役を続ける現在に至るまでを、大友は表情豊かに語り始めた。(フットボールライター・池田宣雄【マニラ】)

大友慧 Satoshi Erasmo Otomo

1981年生まれ。鹿島アントラーズユース出身。2000年にベガルタ仙台(J2)に入団してJ1昇格に貢献する。サガン鳥栖(J2)へのレンタル移籍を経て、横浜FCJ2)に完全移籍。06年にライムスバッハ(ドイツ)でプレーの後、TDK秋田(東北リーグ)でJFL昇格の立役者となり、07年にFC岐阜(JFL)加入後にJ2昇格を果たす。10年からプルシブ・バンドン、ボンタン、ラモンガン(共にインドネシア)、エーヤワディー(ミャンマー)、トラート(タイ)、グローバル(フィリピン)などアジアを渡り歩く。15年途中から横河武蔵野(JFL)でプレーの後、16年のJPヴォルテス(フィリピン)移籍後にフィリピンパスポートを取得。18年からダヴァオ・アギラス・ベルマーレ(フィリピン)に所属している。マニラ在住。

J2の舞台を見下していた勘違い野郎

アントラーズのジュニアユースに入るまで、遊びの感覚でサッカーをしていたので、指導される中でプレーすることにストレスを感じていました。ユースに上がってからは、プロになれるかなれないかという環境だったので、それはもうこと細かく指導を受けました。

ユースの練習は夜やるのですが、トップのアシスタントコーチでサテライトの監督だった関塚隆さんが、時々僕らの練習を見に来ていまして。ちょっとでもおかしなプレーをすると、その場で指導されたり、後で呼び出されて説教されたりしていました。

なんだかうるさいし、おっかない人だなぁと思っていましたけど、今思えば、ユースのガキどもに対しても、トップのコーチが熱心に指導してくれていた訳ですから、僕は本当に恵まれた環境にいたということですよ。まぁ、自分でもビックリするくらいの馬鹿だったので、なにも学んでいないのですが。

トップの練習にはしょっちゅう行っていましたし、サテライトの試合に補充で行くこともありました。でも、実力的にはトップへの昇格は難しいのかなと思うようになっていました。

ある時、フロントの人から関西の大学に進学するお話がありました。でも、僕はプロを目指していたので、大学行きの件はお断りして、プロのテストを受けさせてくださいとお願いしました。それで、いくつかのJ2クラブのテストを受けさせてもらいました。

最終的に、J2のベガルタ仙台と契約することになりました。ちょうど、一学年上の2人がレンタル移籍で行くことになって、鈴木満さんがベガルタと色々話し合っていたタイミングで、僕の話もしてくれたという感じでした。

プロになる夢は叶いましたけど、J2に行ったら上手くなれないんじゃないかと思い込んでいて、ブラジル行きを真剣に考えたり、0円で良いからJ1でプレーしたいとか、契約書にサインする直前まで他の場所を探っていました。当時の僕は、まさに空前絶後の勘違い野郎でしたね。

photo via davao aguilas bellmare fc

◆ゴールに突進するイノシシがJ2で光り輝く

ベガルタでは、アントラーズからレンタルで来ていた先輩の近くに住んで、先輩の車に乗せてもらっていました。キャンプが始まってから間もなく、ドリブルでゴールに突進しまくっていたら、清水秀彦監督に気に掛けてもらえるようになりました。

ある時、鳥かごの練習でボールを追い回していると、清水さんがライフルを構える格好で「パーン!パーン!」って僕を撃ってきて、清水さんも選手たちも大爆笑してて。なにかと思ったら「お前はイノシシだからな!もっと追い回せ!」って茶化してくれて。高校卒の選手は僕だけだったので、かわいがってもらえました。

リーグ開幕の時は怪我で出遅れましたが、怪我から戻ってすぐにベンチ入りしました。その後は、スーパーサブ的に後半途中から出場して得点に絡むようになって、7月以降はスタメンで使ってもらえるようになりました。

ベガルタではツートップの一角で起用されました。僕はサイドのスペースからゴールに向かうスタイルだったので、ゴールとディフェンダーを背にした状態からのプレーについては、こと細かい指導を受けました。

全体練習の後に清水さんの個人指導があって、いろんな形からのシュート練習を繰り返しました。ディフェンダーを背負った時に、どういう身体の当て方をすれば良いかとか、知らないことをたくさん教えてもらいました。

J2でプレーした最初の2年間で、リーグ戦だけでも77試合に出場しました。ナビスコカップとか天皇杯も含めたら90試合以上になりますね。自分のプレーの幅も広がりましたし、チームもJ1に昇格することが決まって、3年目のJ1でのプレーを楽しみにしていました。

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