フットボールフィリピン

インタビュー|母親の祖国で現役を続ける元Jリーガーの軌跡【後編】記事転載

元記事:https://equalizer11.com/2018/10/10/philippine-football-3/

掲載日:2018年10月10日(EQUALIZER)

photo via davao aguilas bellmare fc

横浜FCとの契約を満了した大友慧は、ドイツの地域リーグを戦うクラブに加入して、プロクラブへの移籍のチャンスを伺うことになる。この10ヶ月に及んだドイツ滞在は、日本でのプロサッカー選手としての日々を検証する機会でもあった。

その後大友は、日本の下部リーグでのプレーを三度挟みながら、インドネシア、ミャンマー、タイ、フィリピンで、外国人助っ人選手としてキャリアを積み、現在は母親の祖国フィリピンのパスポートを取得して、ローカル選手としてフィリピンリーグを戦う日々を送っている。

湘南ベルマーレとの提携を発表して、名称ををダヴァオ・アギラス・ベルマーレに変更したクラブで現役を続ける大友は、これまでとこれからのことを真剣な眼差しで語り続けた。(フットボールライター・池田宣雄【マニラ】)

大友慧 Satoshi Erasmo Otomo

1981年生まれ。鹿島アントラーズユース出身。2000年にベガルタ仙台(J2)に入団してJ1昇格に貢献する。サガン鳥栖(J2)へのレンタル移籍を経て、横浜FCJ2)に完全移籍。06年にライムスバッハ(ドイツ)でプレーの後、TDK秋田(東北リーグ)でJFL昇格の立役者となり、07年にFC岐阜(JFL)加入後にJ2昇格を果たす。10年からプルシブ・バンドン、ボンタン、ラモンガン(共にインドネシア)、エーヤワディー(ミャンマー)、トラート(タイ)、グローバル(フィリピン)などアジアを渡り歩く。15年途中から横河武蔵野(JFL)でプレーの後、16年のJPヴォルテス(フィリピン)移籍後にフィリピンパスポートを取得。18年からダヴァオ・アギラス・ベルマーレ(フィリピン)に所属している。マニラ在住。

◆ドイツの地域リーグに身を投じて

高校時代の先輩を頼って、海外でのチャンスを模索しました。選択肢はドイツとアメリカ。チャンスの数と滞在期間の長さを考慮して、ドイツのアマチュアクラブに行くことにしました。

ザールランド州という地方のリーグでプレーしながら、ブンデスリーガの下部クラブのテストを受けるという話でしたが、ちゃんとお金をもらえるクラブのテストは、なかなか受けることができません。ひとつ、3部に昇格する可能性があったクラブのテストに受かったのですが、その話も流れてしまって。

貯金を食いつぶしながらの毎日でしたが、これまでの自分を反省する貴重な時間でもありました。何と何がダメだったのか毎日考えていました。お金をもらってプレーすること、生活習慣のこと、そして周りへのリスペクトのこと。反省すべきことが次から次へと浮かんできました。

テストのチャンスがなくなったので、ひとまず日本に戻っていたら、横浜FCの時にお世話になっていた人から、東北リーグのTDK秋田でのプレーを勧められました。リーグ終了後に地域決勝大会があって、これに勝てばJFLに昇格できるから力を貸してくれと。

その年の地域決勝には、TDK秋田の他にFC岐阜、Vファーレン長崎、ファジアーノ岡山も進出していて、元Jリーガーが何人かいるみたいだし、少しだけお金も出るということだったのでチームに合流しました。

この地域決勝を制してJFL昇格に貢献したのですが、翌年の給料の提示額が納得できなかったのでチームから離れることにしました。それで次の場所を探していたら、対戦したFC岐阜(TDK秋田と共にJFL昇格を決めていた)がJリーグを目指していて、僕のことを評価しているという話を聞きました。

それで関係者の人を通じて売り込んでみたら「ぜひ来てくれ」ということになって、FC岐阜に行くことになりました。その後3年間在籍してJ2昇格も果たしましたが、僕自身は体調不良もあって活躍できませんでした。

もらった給料から自分の身体にも投資して、いろんな体調管理を試してみたのですが、経験値が足りなくて成功と失敗を繰り返していました。Jの舞台に戻れて嬉しかったのですが。

photo via davao aguilas bellmare fc

◆東南アジア各国での過酷な境遇

その後はJリーグの選手会に相談して、東南アジアで助っ人選手としてプレーする場所を探しました。それでインドネシアでトライしてみようという話になって、ジャカルタに向かいました。

ジャカルタの空港では迎えの人が現れず、何日か部屋で缶詰めになったり、食事がいつもフライドチキンだけとか、頭にきて日本の代理人に文句を言いましたが、なにも改善はされませんでした。

今となっては、そんなことはアジアでは日常茶飯事なことなので、文句を言うのは無駄なことだと理解できますけど、当時は代理人の怠慢だとしか考えられなくて、お互いに不愉快な思いをしていました。

インドネシア側の代理人は、結構影響力のある曲者のじいさんで、最初に加入したプルシブ・バンドンは、一番人気のあるクラブでした。テストで韓国人の選手と枠を競わされましたけど、僕が対戦相手のインドネシア代表の選手をチンチンにして、すぐに話をまとめてくれました。

結局、インドネシアでは3つのクラブでプレーしましたが、全部曲者のじいさんが移籍先を決めました。未払いがあったり、クラブが消滅したり、怪我した途端にクビ宣告されたり、色々ありましたけど、最後は怪我を理由に見放されて終わりました。

その後、それぞれ別の代理人を立てて、ミャンマーとタイでもプレーしましたが、あまり良い思い出はありません。生活環境が悪かったり、代理人から多額の要求があったり、なにひとつ仕事してくれなかったり、チームのボスからイジメを受けたり、プレー以外のところでは散々な目に遭いました。

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