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インタビュー|あとひとつ勝てば日本に凱旋したストライカーの話【後編】記事転載

J2沖縄キャンプへの参加要請

元々、貯金するようなタイプではないので、もう自腹で渡航するのも厳しくなってきたので、この頃から沖縄でちゃんと働くことを真剣に考えていました。

一年以上所属先も決まらず、バイトしながら過ごしていると、沖縄でキャンプ中のJ2の2チームから、相次いで練習参加のお話を頂きました。もう二度とJリーグでプレーする機会はないと思っていたので、喜んでキャンプに合流しました。

でも、片方のチームからは予算不足で契約はできないと言われ、もう片方は理由もわからないままお話が流れてしまって。そして両方のチームの人から、琉球の時に問題になったツイッター事件のことを蒸し返されて。チームが決まらなかったことよりも、二年以上前の出来事を言われたことがショックでしたね。

もう手持ちのお金も足りず、海外に行くことも難しい状況だったので、サッカーを辞めて沖縄で働くしかないと思いました。それでアパートを借りて就職したんです。

photo via ceres negros fc

◆フィリピンでの現役続行に至る経緯

沖縄で普通に生活していたところ、知り合いになった人からちょっと信じ難いお話を聞きました。サッカーとは全然関係ないその人の知り合いが、フィリピンでプロサッカーチームをやってると言うんです。そんなお話がある訳がないと思っていたので、最初は真面目に聞いていませんでした。

でも、CVをフィリピンに送ると言うので、前に使っていたのをそのまま渡したら、フィリピンのオーナーの人が沖縄に来ることになったんです。わざわざ会いに来てくれたのは、永見協さんというヴォルテスのオーナーさんでした。

「お前のことはウチの日本人選手たちから聞いてるよ。フィリピンでやってみないか」と言って頂いて。マニラに寮もあって、食事の心配もないし、ちゃんと生活できる条件も出してくれたので、フィリピン行きを決意しました。

ヴォルテスは日本人オーナーが運営するチームで、フィリピンの1部を戦っていました。監督も外国人選手も日本人で、僕がプレーを再開する上では好都合な環境でした。チームに合流して、一年目は16ゴール、二年目は17ゴールを決めました。

それで、最初に(前編で)お話ししたセレス・ネグロスへの移籍につながります。

◆セレス・ネグロスからの契約解除通告

僕はちょっと英語が苦手なので、セレスでの英語だけの環境はちょっと辛かったです。監督が目指すサッカーは理解できていたのですが、監督の指示は感情的な口調で、いつも内容がブレていました。僕以外の選手たちも指示は聞くだけで、要求には従っていませんでした。

戦力が充実していたので、大きな問題にはならなかったですけど、英語で主張できない僕は徐々に出場機会を失って行きました。AFCカップではアジア枠で登録されていたので、すべて先発出場すると思っていましたが、メンバー外になることもありました。

7月15日に、移籍市場が開いたと同時に契約解除されてしまいました。監督からは「お前は俺の英語を理解できていない」と言われましたが、僕としてはそれ以前に、選手たちそれぞれが勝手にプレーしていたので、うまくフィットできなかったと感じています。

実は、5月くらいにタイのチームから声が掛かっていましたが、その時はセレスで続けることを選択しました。その後、リーグ連覇もほぼ確定していたし、今季終了まではセレスでプレーできると思っていたので、言い渡された時はちょっと驚いてしまいましたね。

セレスはその後、リーグ優勝は決めましたが、AFCカップの地区決勝戦で敗退しました。9月から始まったカップ戦でも、グループ最下位になってしまいました。

photo via ceres negros fc

◆来季を見据えての古巣JPVマリキナ復帰

セレスを契約解除になってから、インドネシアのチームから声が掛かりました。インドネシアの移籍期限ギリギリでのお話だったので、残念ながら間に合わなかったのですが、やはり、東南アジアでは名前の通ったセレスでプレーしたことが、声が掛かる要因のひとつだと思います。

フィリピンの移籍期限が終わる直前に、古巣のヴォルテスから今季終了までの復帰要請を頂きました。まだカップ戦が残っていましたし、沖縄にいた僕を拾ってくれた恩義もあったので、ヴォルテスに戻りました。

全日程が終了したら、一度沖縄に帰ってから次のチームを探します。もし日本で生活できるくらいの条件を頂ければ、また日本でプレーしたいですし、アジアの有力チームから良いお話があれば、挑戦したいと思っています。(了)

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