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森保一監督、2012年初優勝時ドキュメント

森保一監督が、退任した。

たしかに今季は苦しい戦いを強いられていた。

徹底した対策を講じられて攻撃は機能せず、ケガや病気での離脱にも苦しめられた。

だが、彼がJ1史上初めて、日本人で3度の優勝を果たした偉大なる監督であることを

忘れてはいけない。

SIGMACLUB WEBでは森保一の功績を称え、かつてSIGMACLUBで掲載したインタピューの数々を

順次、公開していくことに決めた。

まずは、広島中が歓喜に沸いた2012年初優勝を果たした後のインタビューである。

ぜひ、お読みください。

 

2013年2月号掲載

 

優勝記念インタビュー&ドキュメント

森保一監督「1試合1試合」

 

 

森保一が監督に就任したその1年後、

彼がJリーグ最優秀監督に輝き、8万人を集めて優勝パレードが行われ、

その先頭車両で彼が優勝シャーレを掲げる。

そんなことを就任当時に予測すれば、間違いなく「妄想」と嘲笑されたはず。

その妄想は現実となり、森保一とその仲間たちは伝説の創造主に。

だが、忘れてはならないのは、その伝説創造に近道はなかったこと。

1試合1試合。森保一の口癖である。

 

 

「広島は残留争いが妥当」

 

2011年12月8日。広島にとって歴史的な1日となったこの日、果たして何が行われたのか。「J2降格から4年目」。確かに、それも現実。だが、もっとポジティブなことだ。

正解は、森保一監督就任会見。笑顔を時折見せるものの、終始、緊張した表情でひな壇に座っていた青年監督の表情が、その日のトレビニュースを飾った。

「サンフレッチェ広島という歴史のあるクラブを率いることで、責任の重さを感じる」

そんな言葉で、彼は会見の冒頭を飾った。

自らが現役時代にプレーし、情熱と愛情を注いだクラブの監督となったことに対する喜びよりも、責任という名の重圧と闘っているかのような堅さが見えた。

その1年後、森保監督は愛知県豊田市でチームのトレーニング風景を見つめていた。翌日にはクラブ・ワールドカップの準決勝=対アルアハリ戦を控え、緊張感の中にも世界の舞台で闘える喜びに、表情が輝いていた。

Jリーグ王者を率いる2012年最優秀監督。日本人Jリーガー出身者として初めて、監督として優勝の美酒を味わった男。監督未経験ながら見事なチームマネジメントを施し、J創設に参加した「オリジナル10」で唯一のタイトル未経験クラブだった広島に、最高の歓喜をもたらした人物。

様々な賛辞が、森保一の身に降り掛かる。だが就任時は、「監督としての経験のなさ」を指摘され、主力が流出したこともあって森保監督率いる広島は「残留争いを演じる」と見られていた。キャンプをずっと見つめてきた記者は一様に「残留争いはないだろう」と評価してきたが、それでも優勝争いを演じるという楽観的な見方はほとんどなかった。「森保丸」を見つめる視線の厳しさは、新指揮官自身が誰よりも理解していた。

 

あの監督就任会見は、本当に緊張していたんです。自分自身でも「カタいなあ」って感じたくらい(苦笑)。自分のことを「私」って表現すると、もう緊張してダメなんですよ。そこに気づいたので、もう「私」は使いません(笑)。

それにしても、こんな状況(リーグ優勝)になるなんて、正直、想像もしていなかった。もちろん、優勝は一つの大きな目標であったことは事実。でも現実問題として、残留争いの可能性も覚悟していたんです。昨シーズンは僕も含めて新監督が就任したチームも多かったので、うまくいけば上位に食い込めるかもしれないとは思っていたんですが、まさか優勝するなんて(笑)。

 

監督に就任して最初にやったことは、全選手に電話をかけ、言葉をかけることだった。それは佐藤寿人や森﨑和幸、森﨑浩司らのヴェテランだけでなく、清水航平や石川大徳、大崎淳矢といった若手、さらには石原直樹や千葉和彦ら移籍組にまで。「共に闘おう。お前の力が必要なんだ」。メッセージは、簡潔かつ明瞭。だが、その言葉が大きな力となって選手の胸を打った。

ペトロヴィッチ監督退任に多くの選手たちがショックを受けていたが、森保監督就任と新指揮官から直接届いたメッセージは、選手たちから「ペトロヴィッチ・ショック」を一掃。さらに監督就任会見で明確に「今まで積み上げてきた攻撃サッカーを継承し、広島の哲学としていく」と語ったことで、選手たちのモチベーションはさらに高まった。

 

いい守備からいい攻撃

2012年1月30日、沖縄でのキャンプにて。森保一の監督人生は、沖縄の地がスタートとなった。

しかし、その言葉の裏腹にキャンプで待っていたのは守備、そして守備。時には、中学生レベルでやるような「コーチング」のトレーニングも行われた。

沖縄での練習試合、確かに守備は成果をあげていた。だが攻撃はギクシャク感が否めない。宮崎キャンプの終盤、髙萩洋次郎は「まだまだ攻撃は物足りない。バリエーションやコンビネーションをもっと高めないと」と語っていた。森﨑和幸も「沖縄キャンプの時は、正直、攻撃面への不安はあった」と口にする。

森保監督自身は、どう考えていたのか。

確かに、森保監督はキャンプから守備練習に時間を割いた。だがそれは、決して攻撃を軽んじていたわけではない。「守るための守備」ではなく「攻撃の第一歩としての守備」だと考えていた。

「少しでも相手ゴールに近いところでボールをとれれば、すぐに攻撃に移れる」

「いいポジションをとって連動して守れば、攻撃に体力を残せるんだ」

森保監督がキャンプの時に繰り返し叫んでいた言葉の数々である。

広島のタレントたちは、守備陣も含めて攻撃が好き。そんな彼らに「とにかく守れ」と指示しても、なかなかうまくいくものではない。森保監督は常に「攻撃のための守備」を選手たちに意識させた。いい攻撃をするためには、いい守備が必要なんだということを、繰り返し説いた。その言葉は、まるで乾いた砂に水がしみ込むようなスピードで選手たちの中に浸透した。

 

攻撃面は、時間が経てば問題ない、と考えていました。コンディションの高まりと共に、コンビネーションもあがってくる、と。

重要だと考えていたのは、DFラインからのビルドアップ。そこさえうまくいけば、必ず前線のコンビネーションは機能するようになる。そんな自信もありました。移籍してきた(石原)直樹や台頭した(大崎)淳矢など、新しい選手が入ることで、当初は多少、ズレもあったと思います。でもそこも、時間が解決する。チームのコンディションがあがれば、問題はない、と。

攻撃面に関してよく言っていたのは、ボールを動かす時の(選手間の)配置ですね。あとは、ボールを奪った瞬間に寿人の動きを見て背後を狙う速攻への意識。ボールを奪えば、シンプルに速く裏を狙っていこうということは、言っていましたね。ボールを失う危険性は高まりますが、時には直接的にゴールを狙うことも必要ですから。

一方で遅攻になった時は、しっかりとポゼッションするために素早くポジションをとること。例えばG大阪戦での寿人のゴールは、アオ(青山敏弘)が相手からボールを奪ってすぐに出したスルーパスから生まれたもの。いい守備からいいチャンスをつくれていたし、キャンプからやってきたことが形になったシーンだったと思います。

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