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【無料】SIGMACLUB3月号/野津田岳人ドキュメント

 

 

 

 

 

焦り

 

 春の青空が爽やかだったことを、なぜか覚えている。吉田サッカー公園での練習取材が終わった後、クラブ関係者から「今日のリリースで、野津田岳人の新潟への期限付き移籍を発表します」と告げられた。2016年3月29日のことだった。

 まさか、嘘でしょ。

 全く、予測しなかった。確かに出場機会は得られていなかったが、それは前年のクラブワールドカップでの負傷(右膝内側側副靭帯損傷で全治8週間)によるキャンプからの出遅れが大きく影響していた。ケガが癒えたらすぐにトップパフォーマンスになるはずもなく、どうしても時間はかかる。だが、3月16日のACL第3節対ブリーラム戦で、野津田は浅野拓磨のゴールへの1アシストを含む2点に絡み、勝利に大きく貢献していた。「ここからだ」と思っていたのだ。

 移籍理由は、リオデジャネイロ五輪出場を目指したいということ。そのためには、Jリーグで試合に出たい。至極、シンプルなものだった。

 「広島から移籍するなんて、想像していませんでしたし、そういうつもりもなかった。広島の選手であり続けたかった。でも、サッカー選手である以上、試合に出て成長したい。ACLもある中で僕を送り出してくれるクラブに感謝しています。成長して戻ってくることで、恩返ししたい」

 移籍発表の翌日、野津田本人と話をした時、彼が言った言葉がこれだ。だが、期限付き移籍してそこで活躍して、そのまま戻ってこなかった例をいくつも知っている。不安だった。活躍しても戻って来ない、活躍できなくても戻ってこれない。そんな想いばかりが、渦巻いた。

 しかし、野津田は戻ってきた。新潟・清水で苦労を重ねて仙台で自分の居場所を確保。仙台は彼を全力で慰留し、完全移籍で広島から買い取る意志も見せた。だが、野津田はそれでも、広島復帰を選んだのだ。「成長して戻ってくることで恩返ししたい」という3年前の言葉を実践してくれたのだ。

 もちろん、働く場所を決めるということは人生の選択である。違う道を選んだにしても、なんら批判されるべきではない。戻ってきたくても戻れないという現実もあるだろう。だからこそ、野津田の復帰はサポーターの歓喜を呼んだ。オフの話題とすれば、広島の選手にオファーが届き「移籍する可能性が高い」というものばかりだっただけに、広島ジュニアユースから育った逸材の帰還に涙を流したサポーターもいた。

 ただ、どうしても3年前の移籍がひっかかる。過去のこととはいえ、やはり彼の言葉で踏ん切りをつけたい。

 「クラブワールドカップでのケガによって、リオ五輪アジア最終予選に出られなくなった。仲間たちが五輪の切符をつかんだ中で、6月の本大会にはどうしても出たかった。そのためには、試合に出ないといけない。そのためには、アピールしないといけないのに、リーグ戦に絡めていなかった。このままでは、五輪出場は無理だ」

 焦りが彼を包んだ。その焦りに突き動かされ、「突発的」(野津田)に彼は代理人と連絡をとる。

 「移籍先を探してもらえませんか」

 相談したのは3月31日の移籍期限まで数日しかない時期で、考慮する時間はほとんどなかった。それでも野津田の可能性とポテンシャルを評価した新潟が「来てほしい」と打診してきた。考える時間はない。誰にも相談することなく、野津田は移籍を決めた。3月29日の発表まで、話はトントン拍子に進む。期限付き移籍のオファーが届き、選手が同意してしまえば、クラブに引き留める力はない。

 「いろんな人たちから、広島から五輪に出場してほしかったと言われた。決断に焦りがあったことは事実だし、広島を出ることの重要性というか、意味を理解していなかった。でも、決断に悔いは、今もありません」

 森保一監督(当時)は「おまえの決断はすごいと思う」と言ってくれた。ACLが佳境に入った中で、野津田は主要戦力の候補だった。移籍が痛くないはずもない。「きっと、ポイチさんは納得していないと思うんですよね、あの時は」(野津田)。監督だけでなく、誰にも相談することなく、野津田は1人で広島から出ることを決めた。それでも森保監督はかつて自身も所属していた新潟への移籍に「後押しをするから」と言ってくれた。

 結果として、彼の移籍は正しかったのか。結局、リオ五輪の出場は叶わなかった。新潟で爆発的な活躍をしたわけでもない。しかし、広島に残ったらどうだったかも、わからない。たられば、は不明だ。

 「正解は僕にもわからないです。ずっと同じ環境にいて、僕が成長できたのかどうか、そこもわからない。ただ、あの時は相当に焦っていたことは確かです。ACLで活躍すればいいとか、そういうことも冷静に考えられなかった。このままではまずい、とにかく試合に出たい。自分のコンディションが悪いとも思っていなかったから、どうして試合に絡めないのかもわからなかった。自分のプレーが良くても、絡めないのではないか。そんな疑心暗鬼になった。それはきっと、自分が若かったのかもしれないですね。感情だけで動いてしまった。熟考して決断したなら、違ったのかもしれない」

 2015年の優勝に貢献しなかったわけではない。得点もとった。守備でも頑張った。しかし、優勝の実感は彼にはない。チャンピオンシップでも試合に出ることはできなかった。だからクラブワールドカップでは自分の力を見せようと気負った。力みもあった。そしてケガでの長期離脱。悔やまれてならない。

 「五輪本大会が6月ではなく、もっと遅い時期だったら、考え方は変わったかも。ケガをしなかったら、また違ったのかも。でも、それもまた自分の人生だから」

 

(この続きは、2月9日に発売したSIGMACLUB3月号をぜひ、ご覧下さい)

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