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【SIGMACLUB LIBRARY】水本裕貴/生還

肉体の限界

 

ガシッ。

そんな音がスタンドまで聞こえてきたような気がした。それほどの、激しい激突。空中に浮かんだ水本裕貴は、ほとんど受け身もとれないような状態で、芝生の上に叩き付けられた。

それは前半8分、森﨑浩司のCKからスタートした。甲府のCKへの守り方はゾーン。それぞれが持ち場を決め、入ってくる相手を対応するやり方だ。

ペナルティエリアに入っていた広島の選手は5人。その中でもっともヘッドが強い選手は水本。浩司の狙いも、当然そこだった。

「すごく、いいボールだった。甲府にはダニエルやハーフナー・マイクとか、高さのある選手がいたんだけど、助走をつけて飛べば勝てると踏んでいた。だけど、それがあんな事故につながるとは、思ってもいなかった」

大きく弧を描いたボールは、水本の走っていく空間にピタリ。勢いをつけて飛び上がる背番号4。その場所にいたのは、ダニエルだ。スタンディングジャンプ。だが、両手を高くあげて飛んだ彼の左肘が、そのまま水本の右側頭部に叩き付けられた。

故意ではない。事故である。あまりに不運な。

当事者のダニエルと佐藤寿人が心配そうに見つめる中、水本はうつぶせで倒れていた。足を数回、ばたつかせながら。かつて、経験したことのない強烈な激痛。だがこの時はまだ、本当の恐怖に気づいていない。

「脳しんとうだと思っていたんです。痛みは強烈だったけれど、意識ははっきりとしていたし、時間と共におさまるだろう、と」

だがしばらくして、「ちょっと、おかしい」と感じた。2分後、広島が失点した時に予兆があった。

「失点した後、(青山)トシが座り込んでしまった時、(森脇)良太が『膝をやったのかな』って俺に聞いてきたんです。でもその問いに、はっきりと答えられなかった。トシのケガは心配でした。だけど同時に、自分がいつもと違う、と気づいたんです」

それでも水本は、「本当の状態」に気づいていない。時間がたてば、大丈夫だ。そう信じて、疑わなかった。

だが、状態はまったく良くならない。それどころか、今度は吐き気が襲ってきた。時間がとてつもなく、長く感じた。何度も時計を見返した。

そんな状態が彼に訪れているとは、まったく想像できなかった。17分には積極的にオーバーラップし、李忠成の決定的シュートをお膳立て。見ている側は水本の「事故」のことを忘れていた。

44分、ハーフナー・マイクとの接触で中島浩司が足を傷めて、交代。甲府の石原克哉、広島の青山・中島と、3人が前半のうちに負傷交代してしまうという異常な事態。だが、もっとも重いケガを負っているはずの選手はまだ、ピッチに立っていた。

「負けている状態で、前半に二つも交代枠を使ってしまった。その上、自分が交代すると試合が難しくなる。できれば、交代したくない」

水本はドクターに「ちょっと気持ち悪い。吐き気がするんです」と現状を伝えた。ドクターの答えは「もう、やめておけ」。場所が場所だ。心配は募る。

「大丈夫。もう少し、やります」と水本は言う。

「でも、すぐに交代した方がいいぞ」

「大丈夫です。暑さもあると思うし」

「おかしくなったら、すぐに言うんだぞ」

ハーフタイム、水本は自分のロッカーの前に腰をおろし、シャツを着替え、アイシング。いつもの手順だ。ただ、吐き気はおさまらない。

もしかしたら、無理かもしれない。

そんな予感がよぎり、それをすぐに打ち消した。

ピッチに向かう時、横竹翔には「いつでも行けるように、準備をしておいてくれ」と伝えている。もし自分が替わるとすれば、ポジション的に横竹だろう。そんな配慮からだった。だが、彼を襲っている異変そのものは、ドクター経由で監督には、伝わっていた。

ピッチに立った。だが、後半はもう、水本の記憶にはない。相手のプレーを読むとか、まわりとのコンビネーションとか、そういう意識はもうなくなった。あるのは、サッカー選手としての闘争本能。絶対に負けたくないというスピリットだけ。  51分、永里のドリブル突破。水本はバックステップを踏みながら外へと追い出し、身体をぶつけてボールを奪った。53分、左サイドに流れたハーフナーからボールを奪った。54分、クサビを受けたハーフナーがドリブルで持ち込もうとするところに強烈なタックルを浴びせ、シュートを枠に飛ばせない。

だが、この凄みあるプレーを、水本は覚えていない。

「後でビデオを見て、初めてこの時の自分のプレーを確認したんですよ。内田智也選手がポストに当てたシュートがあって、それはうっすらと覚えている。だけど、ビデオで見たら『なんで、もっと寄せないんだ、俺は』って思いましたね(苦笑)」

後半が始まった時、水本に杉浦大輔コーチが「交代するか」と問いかけた。だけど水本は「大丈夫です」と答えた。負けている状況で、替わるわけにはいかない。そんな責任感だけが、彼をその場に立たせていた。

だが彼の身体は、もはや気持ちだけではどうにもならなくなった。50分、カズが完璧なタックルでハーフナーを一撃し、ボールが外に出た。その時、カズのそばに向かった水本は、彼にこう告げた。

「カズさん、もうダメです」

その時の映像が、スカパー!の中継に映っていた。カズが前にいる佐藤寿人に対して「(ミズは)ダメ」と口にし、右手で交代の仕草を見せている。その横に立っている水本の表情は、激しい痛みと吐き気をこらえて眉毛は釣り上がり、歯は食いしばり。般若か金剛力士像のような、険しい表情を見せていた。

水本にとっては、まるで永遠の時間のように思えただろう。カズに「ダメです」と告げてからの5分間、彼は最後のエネルギーを出し尽くした。永里を抑え、ハーフナーを防いだ。だが、もう限界。55分、内田のミドル。この時の水本は、まさに棒立ち。シュートに対して足を出すのが精一杯だった。

56分、第4の審判が交代を告げた。ピッチ横には横竹翔が手を叩きながら、水本を出迎えていた。歯を食いしばって戻ってくる背番号4に近づき、横竹は一言、声をかける。心配そうに見つめている後輩に対し、水本は一瞬表情を緩ませ、肩に手をかけた。

そのまま、水本はドレッシングルームに戻った。この時もまだ、彼は「ひどい脳しんとうだ」と思っていた。だがベンチに座って着替えようとした時、汗が大量に出ていることに気がついた。それも、闘いの後の熱い汗ではなく、冷や汗。とどまることがなかった。

シャワーを浴びた。少しでもすっきりしたかった。だが、汗は止まらず、吐き気もおさまらない。隣に磯部トレーナーがついてくれたことが唯一の救いだった。

救急車が来た。ストレッチャーがドレッシングルームに入ってきた。そこに自分で横たわったのか、それともスタッフに乗せてもらったのかは、もう覚えていない。同点を目指して選手たちが激しく戦い、サポーターが声援と悲鳴をあげていた時、舞台裏ではもう1つの闘いが、スタートしていた。

救急車に乗る前、マラソンゲートの脇から試合が見えた、と水本は言う。同点か、逆転したのか、試合がどうなったのか。その想いだけは、記憶にある。

病院に運ばれ、CT撮影。医師が、水本に告げる。

「頭の骨が折れています。それだけでなく出血した血もたまっていて、すぐに手術が必要です」

え……。

そんな、大けがやったんや……。

脳しんとうや、なかったんか。嘘や。

 

俺、生きているんや

 

後にクラブから発表されたリリースには、「頭蓋骨骨折および急性硬膜外血腫」と書かれてあった。硬膜とは、脳と脊髄を覆った三層の髄膜のうち、一番外にある膜のこと。肘が激突したショックで頭蓋骨が折れて出血し、硬膜と頭蓋骨の間に血腫(血の塊)が形成された。そのままにしておくと血腫が増大し、脳ヘルニアの状態に陥って死に至る可能性もある。いずれにしても、一刻も早い手術が必要だ。

診断を聞いた時、水本の心にはまず「もう、サッカーができなくなるな」という意識が浮かんだ。

もうすぐ、嫁さんがくる。その時に言おう。もう、サッカーができないって。やめなきゃいけないって。

だけどすぐ、質の違う恐怖が、彼を襲った。

いや、その前に俺、死ぬかもしれないんだな。

そうや、死んだら、どうしよう。

生まれて初めて、死と正面から向きあった瞬間だ。

怖かった。家族の顔が、浮かんだ。

まだ、死ねない。死にたくない。生きたいんや。

生への執着が、強烈に湧き出てきた。

愛妻が駆けつけた。泣いている姿が見えた。

俺は泣かない。泣いたら、よけいに心配させる。

「大丈夫やから」

涙が止まらない最愛の人に笑顔を向けた。

「何、泣いとんの。今から手術やし、行ってくるわ」

しかし、手術準備室に入って家族から離れた時、フッと気持ちが抜けた。

迷惑をかけたくない。心配かけたくない。

そんな張りつめた気持ちが、生命をかけた手術の間際まできて、ついに緩んだのだろう。

突然、吐いた。一度おさまり、また吐いた。吐き続けた。そして全てを吐き出した時、覚悟が決まった。

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