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【THIS IS FOOTBALL】ローマも広島も一日にしてならず

すべての大事業は、一朝一夕に成し遂げられるわけではない。

「ローマは1日にしてならず」。古代ヨーロッパを支配したローマ帝国にしても、紀元前753年の建国からカエサルによって地中海地域を支配するようになるまで、約700年の時間を必要とした。日本においても、例えば源頼朝によって源氏が政治の実権を握るまでは、源義家が後三年の役で東北地方を鎮圧して名を上げてから約100年の時間がかかっている。どんな大事業でも一朝一夕では無理だ。多くの人々の努力と、紆余曲折と、試行錯誤があってこそ、一つのことが成就する。

広島においても、原爆によって一瞬のうちに都市と文化が破壊されてから復興するまで、それなりの長い時間を要した。「草木も生えない」と言われた街で呆然と立ちすくんだ市民たちが自分たちの故郷を再興するべく立ち上がった。1946年1月、久保允誉サンフレッチェ広島会長の父である久保道正氏は久保兄弟電器商会を立ち上げた。エディオンの前身である。道正氏はその前年8月15日、原爆によって家の下敷きになり、身体中にガラスの破片が突き刺さるなど、死線をさまよった。そんな状況からたちあがり、新しい会社を立ち上げたバイタリティ。ただ、それほどのパワーをもってしても、今のエディオンになるまでかなりの時間を要したのである。エディオンだけではない。マツダにしても、1920年に創業してすぐに自動車の製造を始めたわけではない。戦前は三輪自動車で評価をあげ、世界初のロータリーエンジン搭載量産車発売など技術力を高めていったわけだが、たとえばロータリーエンジンを載せたコスモスポーツ発売までは47年かかっている。成長のためにはパワーが必要。その上で、時間を重ねることが重要なのである。

スポーツも、成功には1日にしてならない。カープ初優勝は1975年。ルーツ監督によってチームカラーが赤になり、古葉竹識監督によって感動的な優勝を果たすわけだが、その源となったのは1968年の根本陸夫監督就任。この時のオーナー代行であった松田耕平氏は根本監督に「どれだけ負けてもいい。10年後に優勝できるチームをつくってくれ」と語りかけたことがきっかけとなって、チーム改革がスタートした。上田利治や広岡達朗など、後の名監督となる人材をコーチに採用して指導陣の充実を図り、衣笠祥雄や山本浩二といった選手たちをじっくりと育て、優勝までたどりついた。サンフレッチェ広島にしても、経営危機に陥った状況で久保允誉現会長が社長に就任したのが1998年。そこから様々なクラブ改革を断行し、ヴァレリー・ニポムニシ監督を招請して攻撃型スタイルにモデルチェンジした2001年を経て、優勝にたどり着いたのが2012年だ。それでも、カープやサンフレッチェは栄光を握った経験があるから、まだいい。JリーグでJ1優勝経験があるのは、全55クラブ中V川崎(現東京V)・横浜FM・鹿島・磐田・浦和・G大阪・名古屋・柏・広島・川崎Fの10クラブのみ。長い道半ばのクラブが大半である。

サンフレッチェ広島(以後、広島)は3度の優勝を成し遂げた後、低迷する。2017年には降格危機に直面し、森保一監督は退任。横内昭展監督を経て、ヤン・ヨンソン監督が就任した。そしてこのヨンソン監督時代に、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督から続いた「主体的にボールを動かす」サッカーは中断したように見えた。そのあとを受け継いだ城福浩監督が表現したサッカーも、どちらかといえば守備的な受動的サッカーだった。かつてのエディ・トムソン監督時代のサッカーよりもさらに守備の約束ごとは多く、武器は決して多いとはいえなかった。それでも2位という高みを獲得した昨年のチームは素晴らしい。ベーシックなところを高め、全員で粘り強く戦うことで結果を得られるのは、見事としかいいようがない。

しかし、あれは城福監督が本当にやりたいサッカーでなかったことは、明白である。就任当初、「シーズン開幕と閉幕の頃とでは、サッカーの質が大きく変わることになる」と示唆した。降格危機にあえいだチームだったこともあり、最初は現実的なサッカーで勝ち点を稼ぎにいく。そして積み上がったところで少しずつ、サッカーの質を変えていく目論見だった。しかし、歴史的な快進撃にサッカーの方向性を変えることは難しくなり、そして歴史的な失速を迎えてシーズンを終えた。

ところが、歴史はしっかりと続いていた。考えてみれば、ヨンソン監督のサッカーには自由で開放的な香りはなかったが、ボールを手放すサッカーだったかというと、それは違う。城福監督になってボール支配率は落ちているかのように見えていたが、実はトレーニングではボールを握り、サポートを繰り返し、どこにどうポジションをとればボールが繋がるのか、徹底して繰り返していた。「守備的だと言われた甲府時代も、トレーニングは攻撃ばかりでした」と彼は語ったが、その言葉を裏づけるような広島での日々。そしてそのトレーニングが、今の姿に活きている。

広島のサッカーがかつての「主体性」を持つようになったのは、ホームでの湘南戦以降のこと。中断期のトレーニングで指揮官は、こんなことを語っている。

今までは「相手がこう出てくるか」というところで準備をしてきたかもしれない。でも、もっともっと自分たちに目を向けてやっていこう。そういう覚悟を決めました。そしてそれは、選手にも伝えています。言っていることが変わったわけではないんです。ただ、彼らの理解度や進捗状況を見た時、あまり相手の情報を入れるべきではないと判断しました。リスクはある。だけど、それよりも得るものの方が大きい。成長のプロセスの中で、自分たちがやろうとしているところにフォーカスし、もっと具体的にチャレンジして成功体験を積み重ねる。相手のストロングを消すことが薄まるかもしれないが、それよりも自分たちのストロングを出すことで相手を上回ればいい。今、14節で五分の星だからこそ、ここからのスタート。そういう感覚でずっと自問自答していました。

相手の情報は、入れるべきものは入れている。ただ、大切なのは自分たちが今、やろうとしていることを研ぎ澄ますこと。(フォーカスするところの)割合が変わった。そこで手応えを自分たちで得て、積み上げる。そういうやり方が、このチームにはいい。それは僕が判断し、選手に伝えた。前向きにやってくれています。このチームで発揮できるストロングを出せた時にどんな展開になるのか。僕らがリスクを背負ってでもプレーを楽しめた時、見に来てくれたお客さんも初めて楽しんでもらえる。僕らが不安になって試合を迎えたとしたら、きっとサポーターにも伝染する。積み上げてきた自分たちのストロングを発揮すること楽しみを、覚悟と緊張感を持って味わいたい。

細かなディテールは別として、かつての広島のサッカーは、やっている選手がワクワクしているように見えた。また、自分もそういう志向があった。選手たちがこういうサッカーをやってみたいとか、こういうプレーの時間を長くしたいとか。選手たちがそう思わないと、サポーターにも伝わらない。自分が本来やりたいことと広島がやってきたことを掛け合わせ、(見ている人に)楽しいと思わせるサッカーをやる。そういうアプローチに対して腹を据えました」

間違いなく、ここからチームとしての意識が主体的になった。選手から出てくる言葉も、「相手よりもまず、自分たち」という発想から吐き出された。意識は変わり、ミーティングでも「相手のストロングをどう消すか」よりも「自分たちが何をすべきか」がより強く伝えられた。

だが、果たして意識だけで、サッカーそのものが変わるのだろうか。

川辺駿は言う。

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