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【SIGMACLUB3月号】野津田岳人/苦悩。そして僕は取り戻す(無料)

晴天だったか、曇っていたか、そこは覚えていない。ただ、野津田岳人がポツンと立っていた。その寂しそうな姿だけは、記憶に刻まれている。

あれは、エディオンスタジアム広島での試合前日練習の時だった。全体練習は既に終わり、取材も終了。あとは戻って、原稿にするだけだ。カバンを抱え、帰途につこうとしたその時、野津田の姿が目に入った。最後の最後までボールを蹴り続け、個人のトレーニングを終えた彼に「お疲れさま」と声をかけた。スタジアムの出口に近かったこともあり、大きな声で叫んだことも、覚えている。

「お疲れさまでした」

確かに、彼はそう言った。

いつもなら、そのまま歩いてドレッシングルームに向かうはず。しかし、その時野津田は、なぜかその場所にたたずんでいた。そしてずっと、こちらを見つめていた。その姿は、自分を呼んでいるように思えた。

「話を聞いてください」

そう言っているように感じた。

僕は、戻った。

彼の言葉を聞いてやらなくては。

本能が、自分にそう囁いたからだ。

「お疲れ。最後までボールを蹴り続けたね」

近づいて、声をかけた。

そこから彼が何をしゃべったか、それは書かない。ただ、堰を切ったかのように、野津田岳人は話し続けた。彼の言葉を僕と紫熊倶楽部のカメラマン、そしてそこに居合わせた森﨑浩司アンバサダーは聞いていた。その事実だけ、記録しておく。

当時、彼はもう、ベンチ入りメンバーから外れていた。苦悩に苦悩を重ねた2019年の夏から秋にかけての出来事だ。

 

 あの時のことは、今も覚えています。特に、中野さんを呼んだわけではないですけどね(苦笑)。でも、嬉しったですよ、話を聞いてもらって。本当に嬉しかった。まだ、期待してもらっているんだな、と思うことができたから。

 あの頃、メディアの方々とはあまり話したくないと思っていたんです。第一、話せる状態でもなかった。試合に出ていない、メンバーにも絡めない自分に対して、無理に気を遣ってもらうのも申し訳ない。自分自身、喋りながら情けなくなってくるから。話をして、そして悩みを聞いてもらっていたら、「コイツ、落ち込んでいるんだな」って思われてしまう。自分の気持ちが落ちていることを(話をすることで)さらにわかってしまうというか……。話をすれば楽にもなる。でも、その弱さをさらけ出したくないという気持ちもありました。

 それはサポーターのみなさんに対しても同じこと。心配していただくのは、自分としては情けないし、悔しいんです。

 

野津田は試合に出られなくなってから、サポーターの前に立つのを避けていた時期がある。本来、ファンサービスは生真面目にやっていくタイプ。しかし、試合に出られない、メンバーにも入れない自分に対して、サポーターが気遣ってくれることが、辛かった。心配をかけている自分自身が、情けなかったからだ。

応援されていることは、本来であれば嬉しい。嬉しいからこそ、その応援に応えたい。だが、それができない状況に陥った時、それでも支えられている事実が辛くなる。ただただ、申し訳なく思えてくる。

サポートしている側にしてみれば、そんなことを気にしてもらいたくない。野津田岳人がそこにいて、サッカーをやってくれれば、それでいい。しかし、若者は応援に応える義務があると考えがちになる。支えてくれる人の前に立つのには資格がいると思いがちになる。

広島に復帰した時、こんな1年になるとは、想像もしていなかった。仙台で結果を残し、完全移籍のオファーを受けながらもそれを振り切って、広島のために戦うと決意した。すんなりとポジションをとれると思ってはいなかったが、活躍できる自信はあった。成長した姿を見せられるという気持ちも強かった。

しかし現実は、リーグ戦17試合1001分出場。アシストは4つ記録しているけれど、得点はゼロ。第22節の対G大阪戦で64分出場して以降、先発はなかった。それどころか、ベンチ入りもわずか3試合で出場時間はわずかに1分だけ。開幕から10試合連続で先発を果たした時には、想像もできない状況に陥った。2013年のルーキーイヤーから毎年続いていたJ1での得点もなく、カップ戦でもゴールがない。あれほど渇望していた復帰ゴールを広島のサポーターに見せられないまま、シーズンを終えた。

 

 最初は試合に出ることができた。広島で試合に出る喜びも感じることもできたんだけど、ただやりながらも「難しさ」を感じるところがすごく多かったのも事実です。自分のやりたいプレーや結果を試合で出せていたかというと、それは全く違っていた。そのあたりの「ズレ」が、試合に出ながらも感じていたやりきれなさに繋がっていったと思うんです。

 迷いも若干、あった。試合に出てはいたけれど「楽しい」という気持ちにはなれなかった。それが、試合に出られなくなったことへの伏線になったのかもしれないですね。

 結果として広島でプレーしたシーズンとしては(広島ユース3年の時期を除き)最も試合に出られなかった。そういう厳しい1年になりました。

 どうして難しいと感じたのか。どうして、やりたいプレー・やりたいサッカーと実際のプレーと、ギャップを感じてしまったのか。

 もちろん、チームのためにプレーしないといけない。その想いは当然なんだけど、そこにフォーカスしすぎたのかもしれないですね。サッカー選手である以上、チームの決まり事をしっかりとやる。ただ、その上で自分の良さ、ストロングポイントを出さないといけない。そこのバランスが、自分の中で整理しきれなかった。チームの約束事の方に傾きすぎた。そこが難しさにつながったように感じます。

 森保一監督時代とフォーメイションは3−4−2−1で同じ。だから、やり方としても以前と同じだろうと自分では思っていた。実際は、フォーメイションは同じであっても、やっていることは少し違っている。そこに頭が切り替えられなくて、対応できなかった。自分の柔軟性の問題だと思いますが、自分自身で(過去の形に)引っ張られてしまった。こういうふうにできたらいいのになっていう想いと現実との間には、大きなギャップがあったことは事実。

 当時と今とでは、シャドーに対する考え方が真逆なんです。プレーエリアもそうだし、求められていることもそう。なので、今のやり方を覚えることも時間がかかった。それをやりながらでも、自分の良さを出していくことができなかった。

 

森保監督時代の2シャドーは、攻撃の時は常に1トップの近くにいることをシャドーは求められていた。守備の時はワイドに開いて相手のサイドバックを見る。しかし、攻撃になると中に絞り、「シャドー・ストライカー」として得点に絡むことが求められる。ボールを欲しがって外に開こうとするとダメだしをくらっていた。

一方、城福浩監督が推進する2シャドーは、むしろ積極的にワイドに開く。ウイングバックをサポートしてサイドのポケットをとって攻略し、そこからゴールを狙うのがベーシックなやり方だ。森保監督時代のワイドは、ミキッチと柏好文の個人的な突破に頼んでいたのに対し、城福監督のやり方はワイドでこそコンビネーションを求める。それはどちらが「いい」「悪い」ではない。ゴールを攻略するための方法論の違いというだけだ。

野津田岳人はそこに自分の良さをはめていくことが、できなかった。ただ、6月の第15節・湘南戦以降、サッカーのコンセプトが「自分たち主体」に変わった。「相手への対策」をメインとして組み立てるのではなく、自分たちが何をするべきかを主とする考え方に変わった。最初からそういうサッカーであれば、状況はまた違っていたかもしれない。

 

 そういう想いはもちろん、あります。でも6月からそういうサッカーに変わったにもかかわらず、僕はポジションを奪いきれなかった。それは単純に、自分の実力不足であり、言い訳はできない。そういうサッカーに変わっていったにも関わらず、その時に自分が必要されるような存在になっていなかった。

 

(続きはSIGMACLUB3月号で、ぜひ)

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