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【サンフレッチェ広島取材の軌跡】1999年4月3日対名古屋戦/藤本主税の初先発と上村健一の力強さ

2000年創刊のSIGMACLUBで「移籍して成功する方法」という特集を組んだ時の扉に選択したのが、藤本主税だった。

 

●1999年の状況

 

瑞穂は遠かった。

名古屋駅から地下鉄桜通線に乗って約20分。瑞穂運動場西で降りて、徒歩約10分。エディオンスタジアム広島の遠さほどではなく、最寄り駅から心臓破りの坂があるわけでもないが、まずまず遠かった。そして、肌寒かったことを覚えている。

1999年4月3日。僕はサンフレッチェ広島を追いかけて、名古屋にいた。初めての瑞穂で、まず報道受付がわからない。ウロウロしていると、大きなカメラバッグを持っている人がいた。間違いなくプロのカメラマン。ついていけば、きっと受付に辿り着ける。うん、運がいい。

正面の階段下に設けられた入口を入ると、そこが報道受付だった。だが、何やら揉めている。

「事前申請がないと、取材パスはお渡しできせん」

「だから、僕らは申請はいらないんだって言ってるでしょ」

Jリーグの場合、記者もカメラマンも事前申請をクラブに対して行わないと、会場に入れない。しかし、運動記者クラブ所属の会社で仕事をしている記者には、人数制限はあるものの事前申請は必要なく、パスが発行される。それがルールである。そのルールを受付の人がしっかりと把握していなかった。

よくあることである。クラブスタッフが全員、ベテランとは限らない。新人が受け持つことも、バイトの人である場合もある。もちろん、そういう人たちも「クラブを代表する人」であり、ミスは許されないという考え方もあるだろう。「それがプロだ」とも。しかし、たとえプロの名前を冠していても、ルーキーの場合はミスも「成長のためのエネルギー」などと言うではないか。お互いにルールを確認すればよかっただけのこと。ただ、仕事の現場では、ちょっとしたことで行き違いが起きる。

自分のことを顧みると、やはり相手のミスに対して正論ばかりを主張していたことの方が多かった気がする。もし、自分自身が同じ状況に陥ってしまえば、やはり厳しい言葉で主張するだろう。実際、あるクラブで取材申請を「受け取っていない」と言われ、確かに送った、何月何日に送ったと言ってもとりあってもらえず、クラブに相談した結果として「特別に」と言われてパスを出してもらったこともある。どちらが悪いというわけでもない。こちらは送ったつもりだし、でも現実に申請書は広報のところで確認されていないというだけのことだ。以来、取材申請を送ると、それが届いているかどうか、電話で確認するようにしている。アナログ的な手法だが、それが一番確実である。

まあ、炎上もすぐに納まり、僕は無事にパスを受け取れた。スタジアムに入って、記者室に席を確保する。

古い競技場はそもそも、記者がたくさん集まって仕事をするという前提ではつくられていない。どこに行っても記者室は狭く、スタンドの記者席に屋根がなくて、雨が降ったらどうにもこうにもなくなるケースもある。

最近のスタジアムは、お客様が「見る」「楽しむ」ということについては、大きな進歩をとげている。しかし「伝える」ということに対しては、まだまだ検討の余地は残っていると感じる。プロ野球にしてもサッカーにしても、今やスタジアムに来てくれる人だけが顧客ではない。映像を通して、記事を通して、写真を通して、たくさんの人々がプロスポーツを楽しんでいる。そういう人たちがなけなしのお金を使い、それがクラブの収益になる。その流れを考えた時、伝えることへの環境整備はもっともっと取り組まれるべきだ。たとえば、カシマスタジアムにある自前のスタジオもその一例である。

この話題はまた稿を改めたい。書きたいのは試合のことだ。

当時のサンフレッチェ広島の事情を説明しよう。

1998年、前年オフの経営危機によって高木琢也や路木龍次、森保一らの主力が移籍した。1997年と98年、この2年間の戦績次第で年末の「J1参入決定戦」に回る可能性があり、そこで敗れれば1999年はJ2でのスタートになってしまう。強烈な危機感がクラブを襲った。1997年の順位ポイントは6。そしてJ1参入決定戦は、この順位ポイントの2年間の合計が下位4チーム+JFL1位の5チームで争われることになる。戦力的に見ても、広島は十分に参入決定戦出場の可能性があった。

だが、久保竜彦・服部公太・下田崇の若者たちが大きく成長。当時の監督であるエディ・トムソンの子飼いといっていいオーストラリア代表のトニー・ポポヴィッチやハイドゥン・フォックスらも活躍。補強した山口敏弘や宮澤浩、伊藤哲也らも自分の仕事を全うしてくれた。さらにトムソンが構築した超現実的なサッカーによって、強豪と呼ばれる鹿島や浦和といった上位チームを撃破し、参入決定戦出場を回避。この年の夏に社長就任、数々のクラブ改革を推進していた久保允誉社長も「心臓に汗をかいたよ」とほっと一息をついた。

1999年、広島は柏から元日本代表の沢田謙太郎、福岡から藤本主税を補強。前年に他チームの主力として活躍していた選手を獲得するのは、当時の広島としては極めて珍しい積極的な強化策だった。それもまた、久保新社長の影響だったと言える。さらにルーキーでは、選手権で活躍した帝京高の10番=高橋泰の獲得にも成功した。実は高橋は秋までJクラブからの声が掛からなかった選手で、選手権に自分の将来を賭けていた。その思いとギリギリまで人材を見極めようとしていた広島の思惑が一致していたと言える。いずれにしても、高橋ほどの「選手権ヒーロー」が広島に来てくれたのもまた、初めてだった。

前年のセカンドステージで1994年ニコスシリーズ以来のステージ一桁順位を確保したことで上位進出も期待されたが、1999年は開幕から3連敗と完全につまづいた。何かを変えないといけないと判断したエディ・トムソンは第4節・浦和戦で、期限付き移籍から戻ってきた森保一を先発に起用し、藤本主税と高橋泰を途中から投入。藤本がゴールを決め、高橋も得点に絡み、森保がチーム全体を整備した結果、戦力が充実していた浦和を相手に4-1と快勝を果たした。名古屋とのアウェイマッチは、浦和戦での勝利を勢いに繋げる意味でも非常に重要な一戦であることは、言うまでもない。

 

●藤本主税の抜擢

 

試合前日、トムソン監督は「チカラを先発で使う」と明言した。ポジションはトップ下。山口敏弘と横並びで、アンカーに森保一がいる布陣である。もちろん、トムソン監督は藤本に「守備」を求めたのは言うまでもない。そして、指揮官が求める高い守備意識を若きアタッカーが見せてきたからこそ、先発起用を勝ち取れた。

藤本は正直、腐りかけていた。前年、福岡で30試合6得点と結果を残し、J1参入決定戦でも活躍してチームの残留に貢献した自負もある。広島でもポジションをとれる自信もあった。しかし、蓋をあけてみると、先発では起用されない日々。「自分のプレースタイルは90分出場してリズムをつかむもの。途中出場だと、いいパフォーマンスが出しにくい」と愚痴をこぼしていた。

転機は第3節、鹿島戦で敗れた後のことだ。翌日、サテライトの試合があったのだが、鹿島戦に帯同したサブメンバーについてはコンディションも考慮され、「試合に出なくてもいいぞ」と言われていた。しかし、ここで森保一は言った。「サテライトの試合に出たい」と。

「え?ポイチさんが?」

鹿島戦で14分間の出場を果たしていた森保の肉体は、決してフレッシュではない。しかし、それでも彼は試合に出るという。試合勘を失いたくないという意識もあっただろうし、首脳陣にアピールしたいという気持ちもあっただろう。いずれにしても、日本代表で実績を積んだミスター・サンフレッチェが、サブスタートという屈辱にも屈せず、サテライトの試合に出たいと言う。

「俺は、何をしているんや」

休みをもらうつもりでいた藤本主税は、自然とこう言った。

「俺も、出たいです。サテライトの試合に」

この試合が彼にとっての契機になった。めったにサテライトの試合を見ることのなかったエディ・トムソンだが、この時のサテライトの試合は視察していた。その時のプレーを見て森保と藤本、高橋泰の抜擢を決めた。もし、彼が「サテライトには行かない」という当初の判断を変えなかったら、果たしてどういう状況になっただろう。運命とは、ほんの少し、判断をずらした時に決まる。

浦和戦で結果を出した藤本を山口と同時に使うという判断は、指揮官にとってはギャンプルだ。二人とも攻撃的であり、守備は苦手。本来であれば吉田康弘や桑原裕義のようなバランス感覚に優れた選手を使いたいところではある。まして、名古屋にはドラガン・ストイコビッチを筆頭に、攻撃的なタレントがズラリ。アウェイでもあり、本来であれば守備に軸足を置くべきだ。しかしトムソン監督は、まぎれもなく勝負師。普段は石橋を叩いて渡るが、時にその石橋を破壊して新しい橋を懸けることも厭わない。

浦和戦の成果、藤本の先発。高橋は高校選抜に選ばれて遠征中ではあるが、それでも気持ちの高まりは止まらない。しかも試合前、サンフレッチェの広報がわざわざ記者席までやってきて、集まっている広島担当記者に「今日、ゴールを決めれば阿波踊りの女版をやると、チカラが言っています」と教えてくれたから、さらにときめいた。こういうことを言ってくれるタレントは、今までいなかった。有言実行を目指す、頼もしいヤツだ。

この日のスタメンを図で表してみた。

名古屋はここまで2勝1分1敗とまずまずのスタート。1998年末に横浜マリノスと合併したことで事実上消滅してしまった横浜フリューゲルスから楢崎正剛と山口素弘を獲得し、ベンチには湘南から移籍した呂比須ワグナー。前年のフランス・ワールドカップ日本代表に選出された選手が彼ら移籍組の他に平野孝と合わせて4人が名古屋のメンバーに入っていた(当時はベンチ入りメンバーは15人)。福田健二は前年16得点をあげてチーム得点王になったシドニー五輪代表候補で、望月重良もトルシエ日本代表監督(当時)に重用されたテクニシャン。ストイコビッチは言うまでもなく、才能のある選手たちがズラリと揃っていた。

だがトムソン監督は「相手にはスターが揃っているが、しっかりと守って先制すれば勝てる」と自信を持っていた。指揮官は相手の監督・田中孝司がまだ就任1年目であり、補強選手が多いことでチーム戦術の浸透にも時間がかかっていると見抜いていた。エース・ストイコビッチの爆発は怖いが、そこは上村健一の強さに期待すればいい。それほどのエースキラーだったのだ、上村健一というストッパーは。

 

●上村健一vsストイコビッチ

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