SIGMACLUBweb

【THIS IS FOOTBALL】16番。チームを救うナンバー。

サンフレッチェ広島の歴史の中では、決して目立つわけではないが、忘れられない選手たちが何人もいる。

たとえば、李漢宰(現町田)だ。広島時代の彼の成績は、クラブの歴史の中で強烈な輝きを放っているわけではない。しかし、彼ほどチームの危機に存在を見せ付けた選手はいない。173センチと決して身体は大きくはなかったが、全身からあふれ出す闘志は群を抜いていた。技術にも長け、特に右足から繰り出されるクロスボールの質は、駒野友一(現今治)とは違った意味で高質だった。

2007年オフ、李漢宰は移籍と残留の間で揺れていた。前年には26試合出場3得点と活躍したのに、2007年はわずか6試合出場。先発はわずか3試合で、ほとんどの時間をベンチで過ごした。北朝鮮代表に選出されていた実績を持つ彼がその気になれば、獲得に手を上げるクラブは決して1つや2つではなかったはずである。

12月13日、J2降格が決まってから5日後のこと。吉田サッカー公園で李は、ミハイロ・ペトロヴィッチ監督(当時)と向き合った。自分をレギュラーから外し、ほとんど重用しなかった指揮官。京都との入れ替え戦には2試合とも出場し、勝てなかったとはいえ存在を見せ付けた男は、まず監督の話を聞いてみたいと思った。自分の評価をどう捉えているのか。そこが焦点だった。

ペトロヴィッチ監督はまず「今年はメンバーを固定しすぎてしまった。何人かの選手に固執しすぎた。自分も学ばないといけない」と反省の弁を述べた。そして「ハンジェの力がJ1復帰には必要だ。2007年はいろんなストレスを感じながら、やっていただろう。スタメンで出ていない選手はみんな、そうだったと思う。私もミスを認める。ただ、1年でJ1復帰を果たすために、もう一度力を貸してくれ。一緒にやろう」と熱弁を振るった。

その上で、彼はこうも言った。

「ハンジェがボランチでもプレーできることは知っているし、プレーで見せてくれてもいる。でも来季は右サイド中心でやってほしい。もし駒野友一が広島に残留したら、残念ながら君は2番手になるけど、私は君に広島でプレーしてほしいんだ」とも。

あまりにも正直な指揮官の言葉。だが、その正直さは、李漢宰を奮い立たせる。

「監督から直接、こういう言葉を聞かされたことは、本当に大きかった。監督は本当に嘘がつけない人だと改めて思ったんです。もし監督の言葉がなかったら、僕は迷わず、移籍を希望していた」

そして2008年、彼は駒野移籍を受けて右サイドを任され、37試合に出場。正確なクロスと闘志に満ちたプレーで駒野不在の穴を感じさせることなく、J1復帰に大きな貢献を果たした。2009年、ミキッチ加入によってポジションを失い、その年のオフに広島を退団することになるが、クロスボールの質で服部公太や駒野友一と競い合えたサイドアタッカーは、李漢宰ただ1人。何より、「2番手だ」と言われながらもそれをエネルギーに変えた闘魂は、クラブ史上類を見ない。

もう1人、選手の名前をあげるとすれば、山岸智だ。

(残り 1624文字/全文: 2869文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

日本サッカーの全てがここに。【新登場】タグマ!サッカーパック

会員の方は、ログインしてください。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ