【PRIDE OF HIROSHIMA】理想を追いかける/コンセプトとクオリティ
誰が出ても同じサッカーをやる。
もちろん、サッカーの指導者が目指すところは、そこにある。だが、理想は理想、現実は現実。
この理想は非現実的であり、実現しえないと僕は思っていた。
なぜ、非現実的なのか。もちろん、サッカーの方向性の擦り合わせ、徹底はできる。しかし一方で、サッカー選手にはそれぞれ個性がある。右利きか左利きかという細かなところだけでなく、得意なプレー、苦手な分野、発想の違い、スピード、知性、フィジカル。3人いれば3人ともタイプが違う。森﨑浩司と森﨑和幸、双子の選手ですら違うわけで、どういうトレーニングをやったところで、選手が違えばサッカーが変わるのは当然だ。その差をできるだけ少なくすることは、トレーニングでできる。しかし、ゼロにはできない。
もう一ついえば、千葉和彦の口癖だった「サッカーは生き物」という大前提だ。同じ選手であっても、コンディションやモチベーションによってパフォーマンスが変わる。そけはいい意味でも悪い意味でも。鋭すぎる反応を見せる時もあれば、チームの決めごとも忘れて違う発想のプレーに走ったり。バランスをとるべき時に前に出たり、想像を超えたポジションどりができていたり。同じチーム、同じ選手がぶつかっても、同じ展開にはならないのがサッカー。そのせめぎ合いの中で、パフォーマンスはどうしても変わってくる。
だからこそ、トレーニングが必要なのだと考える。シーズン前にできるのは、チームとしてのコンセプトをしっかりと固め、やるべきこと、やってはいけないことをチームで共有するところまで。シーズンが始まってしまえば、チームは生き物であるから、状況は変わる。ケガもある。コンディションもある。好不調の波もある。そういう中で「同じコンセプト」のサッカーをやろうとしても「同じクオリティ」のサッカーができるわけではない。
思えば、サッカーの指導者が言うところの「誰が出ても同じサッカー」とサポーターの言う「同じサッカー」は、違う意味ではないかと考える。指導者たちは「コンセプト」の話をしていて、サポーターは「クオリティ」を求めがちだ。しかし、森﨑和幸と青山敏弘、どちらが欠けていても4年で3回の優勝はありえなかったように、選手が変わればクオリティを保つのは難しい。それは、今の広島であってももちろん同様だ。レアンドロ・ペレイラが出ていない時の得点力、川辺駿や青山敏弘を欠いた時の展開力、柏好文がいない時の左サイド。やるべきことはわかっていても、クオリティを保つのは難しい。
この件について、城福浩監督に尋ねてみた。
「基本的には誰が出ても、我々らしくサッカーするというのはどういうことか、そこはみんな共有しています。一方で、個のよさを引き出してあげるコンビネーションは大事です」
なるほど。
「コンビネーションといっても、パターンではないんです。我々がやっているのは、どこのスペースを狙うか、足が止まらないということはどういうことか、電流を流すという意味はどういうことか。そういうベーシックなことの延長線上に、その場面その場面でのコンビネーションが出てくる。細かいことはなかなか言えませんが、パターンを選手たちにあてはめて、やっているわけではない。だから、メンバーを固定しないとコンビネーションができないという感覚ではないんです。もちろん、個人個人の特徴は活かしたいと思っています」
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