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【サンフレッチェを支える人々】お好み焼みっちゃん総本店(株式会社ISE広島育ち) 代表取締役社長/小林直哉氏「逆境を力に、広島の力に」

●お好み焼みっちゃん総本店(株式会社ISE広島育ち)プロフィール/1950年、広島市中央通りで「美笠屋」というお好み焼き屋台を井畝井三男が始めた。ただ、彼が病気がちだったため、当時19歳だった井畝満夫が営業を引き継ぐ。「みっちゃん」とは彼のあだ名。みっちゃん総本店は広島のお好み焼きの元祖とも言われており、そば入りのお好み焼きを最初に提供した店でもある。

運命じゃと思って、この会社を引き継いでくれんか

 

そごう広島店の10階に、お好み焼き屋さんのイメージを超えたスポットがある。お好み焼きみっちゃん総本店が運営する「雅」である。「お好み焼きのコース料理」という概念を生み出し、個室も準備されるなどビジネス用途でも使える。お店の内装もスタイリッシュで、お好み焼きや鉄板焼きだけでなく、瀬戸内の魚介を使った海鮮料理も楽しめる。

雅が開店したのは2012年。みっちゃん総本店広島そごう店ではなく「雅」と名付けられたのには、ある理由がある。

みっちゃん総本店を大きく発展させた創業者=井畝満夫の長男である井畝雅一。後継者として自他共に認め、企業改革に力を注いでいた雅一は、開店の前年にこの世を去っていた。雅は彼の名前と遺志を受け取った大切な店舗であり、そして現在、みっちゃん総本店の経営を取り仕切る小林直哉社長は、彼の親友である。

小林社長は実は、お好み焼きを焼いたことはない。そもそも彼は広告畑を歩いてきたビジネスマンだ。広島が誇る伝統的なタウン誌「TJ Hiroshima」を運営する株式会社産興(現株式会社アドプレックス)の敏腕営業マンでありプロデューサーとして、サンフレッチェ広島とのビジネスを切り拓いた人である。

サッカーが大好きで、サンフレッチェを愛していて。TJ Hiroshimaでもサンフレッチェのページは存在していたが、ただのインタビューだけでなく、もっと選手たちのかっこいい姿を紹介したいと考えていた。

洋服屋さんに選手のファッションをコーディネートしてもらい、まるでモデルのような撮影をする企画を立ち上げ、実現させた。その時、モデルとなった一人が森﨑和幸だった。彼とはその時以来、まるで兄と弟のような関係を続けている。

みっちゃん総本店との関係も、最初は広告の仕事から。子どもの頃からの友人だった井畝雅一さんからの依頼を受け、店のブランディング企画を請け負っていた。その仕事を始めてから半年後、雅一さんから「一緒にやってくれないか」と入社を誘われる。

「1年ほど、ずっと断り続けていたんです。全く、畑違いですからね。でも結局、彼に口説かれてしまいました」

入社してまず、会社の実態に驚いた。

「企業の体を為していないというか、言ってみれば個人商店でしたね。職人の世界でしたし、人も根付かない。焼き手はそう簡単に育つものではないし、いつも人手不足。スタッフの休みも簡単にはとれないし、労働時間も長くなるし」

当時、専務を務めていた雅一さんもその実態を憂い、改革したいという強い想いを持っていた。だからこそ、小林さんに手助けしてほしいと考えた。ただ、改革するにしても、小林さんは現実を知らない。だからまず、店舗に立つことから始めた。

「店で働かせるために、来てもらったわけではない」

雅一さんは難色を示したが、「会社をちゃんとしていくためにも、まず店ありきだと思うから」と小林さんは押し切った。半年間、1日も休まず、彼は店に立った。「いらっしゃいませ」と大きな声で挨拶し、朝から晩までずっと立ち仕事。トイレ掃除も含め、なんでもやった。

「スタッフからみれば、いきなり社長(井畝満夫さん)の息子の友だちがやってきた、というイメージ。『何を偉そうに言ってるんや』みたいに言われるのが嫌だったんですね。実際、僕はお好み焼き屋さんのことが全くわからなかったし、まず現場から始めようと思った。そうでないと信頼されないから」

店に出て、実態を知って、様々な課題も感じた。スタッフとのコミュニケーションを図れたことで、彼らの気持ちも知ることができたし、お客様のこともわかり始めた。

だが、小林さんが店舗に立っている間に状況は少しずつ変わっていった。雅一さんの病気が発覚し、余命半年を宣告されてしまったのだ。

「社長を引き継いでほしい」

毎日、見舞いに来ていた小林さんに、雅一さんは気持ちを伝えた。でも簡単に、うなづくことはできない。

当時、みっちゃん総本店の冷凍事業を別会社でやっていて、その会社は雅一さんが社長を務めていた。

「社長不在になっている現状はまずい。俺が仕事に出られるようになるまで、せめてこの会社の社長を引き受けてくれ」

「いや、出られるようになるんだから、社長が替わる必要はない」

そんな会話をずっと続けていたが、雅一さんの病状は深刻になるばかり。仕方なく、別会社の社長は引き受けた。しかし、みっちゃん総本店自体の社長就任は拒否。雅一さんの復帰を信じていた。友だちの回復を心から望んでいた。

だが、余命宣告から9ヶ月後。雅一さんは亡くなった。まだ43歳。若すぎる。

彼が逝去したその日、病院の外で雅一さんの父・満夫さんがポツリと言った。

「あんた、運命じゃ思うて、この会社を継いでくれんか。ワシはもう、やる気が失せたけえ、社長を下りたい」

「いやいや、まだ、できるでしょう。元気なうちはやってください。辛いのもわかる。じゃけど、このタイミングでいきなり僕が新しい社長だと言われたって、職人たちはウンとは言いませんよ」

スタッフたちとは確かにコミュニケーションがとれていた。職人たちへの理解も深まった。でも、今の自分が偉大なる井畝満夫の後継など、できるわけがない。みっちゃん総本店にとって井畝満夫は創業者であるだけでなく、象徴的存在である。

「店に毎日、出なくてもいいから、社長であり続けてください。100%バックアップはするから、社長であることだけは続けてください」

雅一さんが亡くなって4年の間、満夫さんは社長を続けた。しかし後継者として期待していた愛息を亡くしたショックは大きく、テンションは低いまま。体調も厳しくなり「足がダルくて、店に立てない」と訴えることも。

「なあ、直哉くん、もうええじゃろ」

広島のお好み焼きにとって伝説の男の言葉を重く受け止め、小林さんは社長を引き継ぐ。創業者は会長に退き、会社の経営は小林新社長に一任された。

しかし、社長就任によるテンションの向上はない。誘ってくれた友人はこの世にいない。少年時代からよく知っていた伝説のお好み焼き職人は、息子を失って元気を失った。それでも「みっちゃん総本店」という存在を守らないといけない。

気力を振り絞った。雅一さんの想いを具現化した「雅」はみっちゃん総本店にとって4店舗目。今はFC経営も含めて8店舗を展開。2018年には東京にも進出し、「つるとんたん」を経営している株式会社カトープレジャーグループにFC運営を任せている。

「フランチャイズのお話は実は引く手あまたで、いろいろなお話は来る。ただ、こういう長い歴史を紡いできた会社なので、職人がちゃんとしていなければお断りしているんです。最低半年は店に来て修業して、5段階評価で3のレベルまで最低でも到達している焼き手が1店舗あたり最低3人必要。その条件を全て受け入れてくださったんです」

 

広島にもサンフレッチェにも、恩返しがしたい

●小林直哉社長/1968年生まれ。広島県出身。学生時代はハンドボールに打ち込み、日本一のレベルを誇った日本体育大ハンドボール部に加入し五輪を目ざしたほど。ちなみにお好み焼きはうどんではなくそば派。

 

サンフレッチェとの付き合いは昨年、引退した森﨑和幸が訪問したところから始まる。

「その時、カズは『ポスター企画をやっているんですけど、どうですかね』といきなり営業をかけてきた(笑)。僕はサンフレッチェさんに御恩を感じていたし、なんらかの形でお返ししたいと思っていたから、提案を受けた。実は創業70年を迎えた今年、広島にお恩返しする意味でも、スポンサードゲームをやらせてもらう予定だったんです。コロナ禍で流れてしまったんですけどね」

今年、森﨑CRMは自身の著書「うつ白」(森﨑浩司アンバサダーとの共著)印税を使ってみっちゃんのお好み焼きを買いとり、それを無料で広島の人たちに配布して恩返ししたいという相談を受けた時、「大人になったなあ」と感じたという。

「病気のことを世間に赤裸々に公表したことで、男としての自信が漲った感じがした。時々、事務所に来てくれるんですが、雑談がほとんどで(笑)。でも、以前よりも魅力的になりましたね。

だから、今回の件で頼ってきてくれたことは、すごく嬉しかった。今回の企画でも当初はそういう予定ではなかったのに最後までお店に立ってお客さんに配っていた。だからこそ最初は告知もできなくて厳しかったのに、最後は行列ができたんだと思います。現役時代よりもさらに、人間力が高まったように感じました」

飲食業だから当然、今回のコロナ禍では大きな打撃を受けた。最近は少しずつ戻ってきているとはいえ、昨年比で6割くらいの売上だという。それでも、小林社長は前を向く。今季はできなかったスポンサードゲームも、いずれ実現させたい。ユニフォームスポンサーにもなりたい。もちろん、サンフレッチェのためでもあるが、広島のためでもある。

「スポーツがなくてもいいという人もいるけれど、こんな状況ですごく心が落ち込むからこそ、サンフレッチェやカープが勝つとかいうことが、広島の人にとって、どれだけ大事なことか。地元にプロスポーツチームが存在していることで、人々がいかに元気にしてもらえるか。

選手が頑張っている。だからこそ、見てる側も燃える。やらなきゃいけないっていう気持ちにもなれる。仕事の糧にも生活の支えにもなれる。そうじゃない人もいるかもしれないが、サンフレッチェが必要な人は確実にいる。少なくとも、僕はそうなんです」

今も小林社長は、亡くなった親友が務めるべき立場で、70年続く伝統の名店を経営している。いつか彼の息子が後を継いでくれる、その時を信じて。

 

(了) 

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