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藤井智也/たった1度だけ、森﨑浩司と手を繋いで歩いた少年の軌跡と情熱

13年前、まだ9歳の藤井智也少年が森﨑浩司と手を繋いで長良川競技場に入場していたとは、おそらく藤井以外の誰も、知らなかった。というか、藤井自身も、忘れていた事実だつたはずである。

実は16日に行われた新加入選手会見の前日、筆者は彼にこんな話を聞いている。

「15番という背番号は2001年、森﨑浩司が背負っていた番号なんだけど、そこについては?」

藤井は目を見開いた。「想定外や」という想いが表情に浮き彫りになった。

無理もない。周りの記者たちも「えっ」という気持ちも隠せなかった。

森﨑浩司といえば7番のイメージがあまりに強烈。彼が他の番号をつけていたとは、パッと言われてすぐには思いつかない。

浩司の最初の番号は22番。2年目の2001年、同期の森﨑和幸が20→8、駒野友一が23→5と変わる中で、浩司もまた15番に変更となった。他のレギュラー番号で浩司のような攻撃的選手にふさわしい番号にあきがなかったのも一つの要因。

15番は前年、上野優作がつけていた番号で彼は2000年オフ、京都に移籍。上野の前には藤本主税が1年だけつけていて、彼は2000年に念願の11番に変わっていた。15番は髙萩洋次郎が2007年〜2012年までつけていて、初優勝が決まった時に15番の髙萩が祈りを捧げていたシーンが印象に残っている。彼が2013年に10番をつけた後、15番は岡本知剛・稲垣祥・櫛引一紀と受け継がれた。

ただ筆者は、髙萩については15というよりも10番の印象が強い。それは藤本にしてもしかりで、彼もまた11番が記憶に刻まれている。イメージとはそういうものだ。

それでも浩司の「15番」を筆者が覚えているのは、彼がプロ初得点・2点目を決めたアウェイ福岡戦のインパクトが強烈すぎたからだ。このあたりのことを話せば長くなるからここでは割愛するが、たった一試合のプレーで見ている側の心に何かを刻み込める選手は、そう多くはない。15番= 浩司、この事実を忘れられないものとした20年前のプレーは、それほど凄かった。

藤井は浩司と共にプレーしたことはない。彼が広島にとって偉大なレジェンドであることは認識しているが、まさか彼が15番を背負っていたことがあるとは、想像を超えていたはずである。いきなり浩司のことを聞かれても、答えに窮するのはある意味、当然だった。髙萩洋次郎についてはどうかと思って聞いてみたが、彼の15番についても今から9年前。藤井は当時まだ中学生であり、岐阜に住んでいたサッカー少年が広島に注目しているはずもなかった。

「じゃあ、記者会見の場で質問するから、準備しておいてくださいね」

そう言うと彼はほっとした表情を見せた。

「はい。わかりました」

このやりとりから、彼は9歳の時の事実を思い出したのだ。

不思議な縁としか、言いようがない。FC岐阜が自分たちのホームに広島を迎え撃ったのは2008年4月6日のたった1度しかない。エスコートキッズも必ず藤井が務めていたわけではにない。まして浩司と共に歩くなんて確率は、天文学的だと言っていいだろう。

なのに、そこで既に7番をつけていた広島史上もっとも得点を決めている選手と共に歩いた少年がその後、プロサッカー選手として広島にやってきて、浩司がつけていた15番を背負う。しかも彼が15番を選択したのは大学時代から身に着けていたからであり、「15番にしたのも、自分に合うサイズがこの番号しか残っていなかったから」という他愛ない理由である。鳥肌がたつほど、偶然が積み重なっている。

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