SIGMACLUBweb

青山敏弘、J1通算400試合出場まで、あと1試合/広島対鳥栖戦プレビュー

青山敏弘の抜擢は、突然だった。

2006年6月、ミハイロ・ペトロヴィッチという男がオーストリアからやってくるまで、3 年目を迎えた彼はリーグ戦で1試合も出ていない。ベンチにこそ何試合か座ったが、小野剛監督も望月一頼監督も、青山敏弘に何かを託そうという気配を見せなかった。開幕から続いたリーグ戦10試合連続勝利なし、12試合で2勝4分6敗という降格の危機に向けて、指揮官たちはここまで全く経験がない、前年には右膝前十字靱帯断裂で大怪我を負った20歳の若者にチームの命運を託そうとは思いもしなかった。

だが、ミハイロ・ペトロヴィッチは来日してすぐ、青山敏弘という若者の中にある才能を見つけた。だが一方で、これほどの能力をもっていながら、どこかこわごわとプレーしている姿に、疑問を抱いていた。

「この選手は、いったい何を、怖れているんだ。技術も高い。知性もある。何よりも運動量が豊富だ。間違いなく能力は高いのに、彼は解き放たれてはいない。大人しく、慎重すぎる。もっとチャレンジするべきなのに、それができない。アイデアを持っているのに、それを発揮しようとしない」

結論は出た。

「この若者は、ミスを怖れているんだ」

新指揮官は、青山に対してのアプローチを意図的に変化させた。

「アオ、いいところを見ていた」「そのチャレンジは悪くないぞ」「その判断でいいんだ」

練習で佐藤寿人がこんな要求を青山に突き付けた。

「トシ、もう少し待って(パスを出してくれ)」

だが、ペトロヴィッチはその言葉を否定した。

「ヒサ、アオが出したそのタイミングで(ゴール前に)走ってくれ。アオはそれでいい」

この時、青山の視界にあった闇が、振り払われた。「俺のプレーが、認めてもらえたんだ」と素直に思えた。

誰からも認めてもらっていない。

若者は、そう思っていた。牧内辰也コーチなどからは「続けてやれば、必ず認められるから」と言われていた。そういうものなのかもしれない。しかし、青山自身、「認められた」という実感が1度もなかった。なのに続けろと言われても、何を信じてやればいいのか、わからなかった。だが、ペトロヴィッチ監督は、エースの言葉よりも若者の判断の方を支持し、エースもまた納得した。

「俺は、やれるかのもしれない」

そんな気持ちになったのは、プロになって初めてだった。

「日本人は比較的、自分の考えを口にしないタイプが多い。特にアオは繊細で、言葉も少ない。だから私は考えた。彼にどう接していれば、いい方向に導けるのかってね。ブラジル人選手やベテラン達に遠慮している彼を見て、とにかく『大丈夫だ。ノーマルに続けろ』と言い続けた。気持ちの壁を取り除いてやることが、何よりも重要だったから」

ペトロヴィッチは、青山に自分自身のスタートを託した。紅白戦でCBでの起用も行って守備の力も確認し、指揮官にとっての来日初戦であるJリーグ第13節対名古屋戦にアンカーとして先発起用を決断したのだ。

名古屋はここまで12位と実力の片鱗も発揮していなかったが、メンバーは豪華。川島永嗣や本田圭佑、玉田圭司や豊田陽平。日本のサッカー史を彩る才能が煌めいていた。そういう相手に、ペトロヴィッチは青山という若者と共に、デビュー戦を迎えた。2006年7月19日、瑞穂陸上競技場が歴史のスタートだ。

試合展開は、決して思ったようにはならなかった。

6分、名古屋のボランチ・吉村圭司に対する青山のプレスが遅れ、縦パスを出された。PKを与えてしまい先制点を許す。

ミスを取り戻そうと必死に戦い、再三スルーパスを出した。前線に飛び出し、シュートも打った。だが、思いは空回りして、有効な攻撃には繋がらない。それでもチームはウェズレイの2得点で盛り返して何と同点でハーフタイムを迎えた。

「青山は交代せざるをえないな」

記者席での声。だが、ペトロヴィッチ監督は動かない。当然のように、青山を後半もピッチに送り出した。

青山を救ったのは、森﨑浩司の機転だった。

この試合のフォーメイションは3-1-4-2。中盤で起用されたのは、青山と浩司、そしてベット。3人とも攻撃的であり、裏に飛び出したい選手たちだった。彼らが前に行こうとするあまり、名古屋にスペースをつかれて前半はピンチの連続。そこで浩司は、自分のスタイルを押さえてやや下がり目に位置どりし、バランスをとった。その上で後半、青山にバランスの修正を指示し、スペースを消すことも意識させた。

この機転によって、青山は落ち着けた。

そして56分、CKのこぼれを青山が強烈なシュート。そのこぼれを八田康介が絡み、さらにこぼれたボールが寿人の足下に落ち、ゲット。

逆転。後の運命を彷彿とさせるかのように、青山のプレーが結果として寿人の得点を呼び込んだ。

青山とペトロヴィッチのデビュー戦は、3-2。5年8ヶ月ぶりとなる対名古屋戦のリーグ戦勝利。2年振りとなる逆転勝ち。

青山は90分間、戦い抜いた。足をつらせながらも、痛みを振り切り、彼は最後まで走った。

「今日は青山を褒めてあげてください。度胸はあると思う。もっとキープしろとか、いろいろあるけれど、自分から積極的にプレーしようとしていたから。あいつが出ても勝てたことは、本当によかった。自分たちにとっても彼にとっても、いいスタートになる」

戸田和幸の言葉が、この試合の青山敏弘の全てだ。

あれから15年。青山はJ1通算400試合出場まで、あと1試合まで辿り付いた。

2007年、J2降格。2度にわたる膝の半月板手術。慢性的な腰痛。そして一昨年は右膝軟骨の痛みで引退すら、囁かれた。

そんな苦境下でも彼は常に前を向き、どんな時でも諦めずに次へと向かった。その姿勢が才能を開花させ、3度のJ1優勝、MVP。ワールドカップ出場へと導いた。そして今も、彼はチームを牽引する。

ケガもあり、J2の経験も踏まえて、このクラブだけでJ1通算400試合。偉大な数字ですし、尊敬に値する。彼が歩いてきた平坦ではない道から生まれたこの400という数字の重さは、一緒に彼とやってきたからこそ、わかる。その偉大さを勝点3で祝福したい」

城福浩監督は青山の偉業をこんな表現で祝福する。

「今、隣でプレーさせてもらっているだけに、アオさんの凄さを実感しますね。自分も練習や試合などを通してアオさんから常に学ぼうとしていますし、それは幸せなこと。特に凄いのは、闘うところですね。その想いや強さを、誰よりも出している。そこにプラスしてワンタッチパスの精度。見ている範囲や技術も素晴らしいし、自分に足りないところを気づかせてくれる。自分もそういうプレーができれば、また違ったよさも出てくると思うし、チームでも(アオさんが)いるといないのでは全然違う。常に見習っていきたいです」

今や大黒柱に成長した川辺駿の言葉だ。森﨑和幸についでクラブ史上2人目、Jリーグでは26人目となるJ1通算400試合の凄みを、現場の選手たちが最もわかっている。ちなみに1度も移籍せずに400試合を達成したのは、曽ヶ端準(鹿島)・山田暢久(浦和)・中村憲剛(川崎F)・森﨑和幸(広島)の5人だけ。広島在籍経験者としては、カズの他は水本裕貴(現町田)と佐藤寿人(現解説者)しかいない。

試合に出て、実際に達成してから、(400試合は)実感するのかな。今のところ、まだ改まって何か(の想い)というのはないですね」

青山らしい言葉だ。

(残り 582文字/全文: 3590文字)

ユーザー登録と購読手続が完了するとお読みいただけます。

ウェブマガジンのご案内

日本サッカーの全てがここに。【新登場】タグマ!サッカーパック

会員の方は、ログインしてください。

« 次の記事
前の記事 »

ページ先頭へ