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【SIGMACLUB7月号】青山敏弘選手J1通算400試合出場記念スペシャル インタビュー/悔しさこそ、原点

少年の頃は自分に自信がなかった

 

……J1通算400試合出場、おめでとうございます。

青山●ありがとうございます。

……実感は?

青山●なんか、そうやって言われると(実感が)出てきた感じ。それまでは全くなかった。周りからは(400試合のことを)言われていたけれど、それに対して何かを思うことはなかったし、意識していなかったです。

……周りが言ってくるから、意識し始めた?

青山●そうですね。実際、(J1通算400試合出場)という数字がどれくらいすごいものなのか、そういう感覚もないです。これまで何人の選手が達成して、どのような方がいらっしゃったのか。それを見てみると「凄い記録なんだな」とは思いますけど、あんまりそれ以上は考えていないですかね(笑)。

……なるほど。まあ、そういう試合出場数を目標に掲げてプロに入る選手はいないと思うし。まずは目の前のことを精一杯、やってきたことが結果として記録につながった。

青山●本当にそうだと思います。達成してみて初めて、素晴らしい数字なんだなとは思いますが、この先のことの方がもっと重要ですしね。(記録を)噛みしめる時間もなく、すぐ次に向かっていくことは、むしろ自分らしいと思っていました。

まあ、(達成したのが5月8日の対鳥栖戦で)連戦の最中でしたし、こういうことを話す機会もなかった。改めて振り返らせてもらうことも、幸せなことだと思います。

……今回、青山選手がJ1通算400試合出場という記録を達成したことを、ずっと取材してきた僕自身も誇らしく思っています。1年目に腓骨骨折、2年目に左膝前十字靱帯断裂、その後も2度にわたる左膝半月板の手術や腰痛、最近では右膝軟骨の痛み。これほどのケガを乗り越えて、この記録を達成した。本当に誇らしいです。

青山●ありがとうございます(笑)。

……ハジャスFCの花田雄二監督にお聞きしたのですが、青山選手は中学時代に岡山県選抜になかなか選出されなかった、と。

青山●そうです。

……それで花田監督が、青山選手を選出しなかった指導者の方々に「青山を落選させたことをきっと後悔する日がくる。あいつは大物になる」と言ったそうです。

青山●そのことは初めて聞きましたね(笑)。まあ、その当時は確かに自分は評価されていなかったし、自分にも自信がなかった。周りには自分よりもレベルの高い選手たちがいて、常に悔しい環境が身近にあったわけです。そういうレベルの高い選手たちを見ていると、自分はまだまだだなといつも思っていた。今考えると、自分がトレセンや選抜に入れないというのは、逆によかったのかな。

……早生まれということもあって、中学時代は同級生と比べてどうしても身体が小さいというところはあったそうですね。でも、花田監督によれば、負けん気がすごくて、他の選手のアドバイスにも聞き耳を立てていた、と。その原点にあったのは、悔しさだった?

青山●うーん、そうですね。悔しさが1番大きい。ただ、もちろん悔しいのですが、一方で自分には支えてくれる家族が側にいた。親とか、応援してくれる人たちに常に見守られていた。だから、諦められないなというのは思っていましたね。

まあ、いつもおかあさんに「もっと、こうしなさい」と練習帰りに言われていましたけど(笑)。「おかあさんにはわからんよ」って言いながらね。でも、常に自分のことを見てくれているなと感じていた。だから、(うまくいかないことが)悔しかったんだろうな、当時は。

周りが岡山県トレセンや中国トレセン、ナショナルトレセンにも行っていて、同級生の1人が広島ユースに入ったりして。僕は広島ユースのセレクションも受けていない。ある日、僕が練習に行ったら他の選手たちがいなくて。「どこに行ったの?」と聞くと「ユースのセレクションを受けに行ってる」って。

自分は、そういう機会があることも知らなかった。そういうことには無縁だと思っていたしね。ただ、すごく悔しかった。それが原動力になって、今に繋げられたのかなと思っています。

 

3年目、クビになる覚悟をもって

 

……本当はお兄さんが行っていた東海大五高に行きたくて、でも誘いがなかった。

青山●そうですね……、それも悔しかったですね。うん。実際、同級生は評価されていたし、自分は評価されていなかったし。やはり家庭の状況もあったし、自分は岡山でやっていくことに決めた。それも1つの挫折。でも作陽高で厳しい環境を与えてもらった。

作陽にはチームメイトの誰も行っていなかったし、自分は1人で倉敷を離れて津山に行くという決断をした。厳しい選択だったと思う。

それでもなお、両親は見守ってくれていた。(作陽高がある)津山に行っても練習試合は見にきてくれていたし、試合で倉敷に行く時はすごく、胸が高まっていた。ハジャスの花田監督も倉敷の試合なら目が届く。そういうことを、常に感じながらやっていました。

……だからこそ、サンフレッチェユースには負けたくないという意識が?

青山●あんまり広島ユースという存在そのものに接点はなかったから、ユースってどんなんだろうっていうことを思っていた。遠い存在だったですね、自分にとって。ユースの選手は上手かったし、オーラもあったと思っていた。でも、接点がなさ過ぎて、本当のところがどうか、わからない。

でも3年生の時、プリンスリーグで同じグルーブになって試合をやりましたけど、あの時は一気にスイッチが入りましたね。絶対に負けないって思った。その前くらいに年代別代表に呼んでもらって、そういうレベルの選手たちと一緒にやることで「自分にも手が届く」ところになっていた。闘えるという想いになったことで、負けたくないなって意識し始めました。

あの時は同じ年に田坂祐介(元川崎F)がいて、本当にうまいと思った。絶対、トップチームに上がってくると思ったんだけど、その田坂がトップに入れない。一方で、自分はサンフレッチェ広島に入ることができた。自分に何かがあると足立(修スカウト※当時)さんやクラブが感じ取ってくれたのかなと思います。

……最初に青山選手を見たのが、2003年夏の美作キャンプでした。素晴らしいサイドチェンジを見て、「これで本当に高校生なのか」と思った。森﨑和幸CRMもこの時の青山選手のプレーが印象深かったと言っています。紅白戦でのサイドへの展開が素晴らしかった、と。

青山●へぇー、そうなんですね。僕もあの紅白戦で手応えを得たというか、トップへの道を拓かせてもらったと思っています。

キャンプが終わる頃には、上村(健一)さんが声を掛けてくれた。その後、トップチームの練習に行く度に「お前はもう広島加入が決まっているのか」と気にかけてくれていた。

今、思うと、あの時のキャンプから始まったのかな。いまでもそのサイドチェンジを通した時の光景は覚えています。誰がクロスをあげたのかは覚えていないけど、得点につながりましたし。アシストの前のプレーになったことを、はっきりと覚えていますね。

……高校2年生の時の「幻のゴール(全国高校サッカー選手権岡山県大会決勝の延長前半に青山がVゴールを決めたにも関わらず、それが主審に認められず、PK戦の末に作陽高が敗れた事件)」をきっかけにして成長し、作陽高時代は右肩上がりに成長。その流れはプロに入っても続くと考えて、早い段階で試合に出られるのではという期待感があった?

青山●もちろん、そういう期待はあったけれど、あんまり試合に絡んでいく実感がないまま、最初の数ヶ月は過ごしていたのかな。ただ、時間が経過するにつれて自分の中で状態が上がってきていた。当初は試合に絡むことは現実的ではなかったけれど、だんだん手応えが出てきたなとすごく感じていたね。そうしたら、ケガをしちゃった(2004年9月14日に右腓骨骨折。全治2ヶ月)。

……ナビスコカップに出てゴールを決めた(2004年4月29日・対横浜FM戦)のが、きっかけというわけではないんですよね。

青山●そうですね。まあ、そもそもトップチームと一緒に練習をしていなかった。同じグラウンドで同じメニューのトレーニングをしているけど、試合に絡む組と絡まない組とは明確に分かれていた。そっち(試合に絡む組)に行ったことがなかったから。

……当時は、広島ビッグアーチ(エディオンスタジアム広島)で前日練習が行われた時には、メンバーに入った選手だけがそこに参加できた。それ以外の選手たちのトレーニングは吉田サッカー公園だった。

青山●そうです。だから、まずそっち(試合に出る組)に入るのが目標でしたね。当時はベンチ入りも16人だったし、自分にとっては試合に出る組に入ることは遠い存在だった。

……その目標にもしかしたら手が届くかもというところで、ケガをしてしまった。

青山●はい。3ヶ月間、離脱していました。

……2年目の5月22日、サテライトリーグの対神戸戦で左膝前十字靱帯断裂。6月28日に手術して全治8ヶ月の診断。シーズンを棒に振ってしまった。

青山●確かにそうなんだけど、あの時期にメンタルもフィジカルも鍛えられました。あの時にあれだけ苦しんでよかったなと、今は思います。

……とにかく、よくトレーニングしていた。

青山●あの時は、日本一練習していたと言ってもいいかも(苦笑)

……身体がみるみるうちに変わっていった。

青山●その実感はありました。とにかく、ウズウズしていたので練習し続けていた。それ(上半身を鍛える)しかできなかったし、この身体で早く(サッカーの)パフォーマンスを見せたいという気持ちがどんどん膨らんでいった。パワーをため込んでいたから。

……12月、ケガをした後で初めて、ボールを蹴った。吉弘充志選手(現FCマルヤス岡崎コーチ)を相手にして。そこでようやく、来季に向けての気持ちになれた。

青山●はい。なれましたね。でも、膝はまだ万全ではなかったし、3年目のキャンプに入っても膝には違和感がありながら、でした。でもサッカーができる喜びが自分の中にあったし、トレーニングで絶対に自分のベスト以上のものを常に出していくという覚悟を持っていた。とにかくあの時は、自分にフォーカスしていました。

……当時は、プロに入って勝負は3年という時代。3年で結果を出さないと、次の契約も厳しいという時代だったでしょう。

青山●うん、僕もそう思っていた。3年契約でしたしね。だからこそ、思うことはあった。「今年もしダメなら他のチームでやればいい。このチームをクビになっても仕方ない。でも、その前にとにかく全力でやろう」と決意していた。「全力でやって、クビになってしまうのならしかたないじゃないか」。そういう覚悟を持っていましたね。

 

※全文(約1万字)は6月12日(土)発売のSIGMACLUB7月号に掲載しています。ぜひ、ご覧ください。

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