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8月6日に馳せた思いを書いてみた。

8月6日は、毎年、やってくる。

その度に広島は、深い想いに囚われる。

怒りとか、哀しみとか、そういう単純な想いではくくれない複雑な感情。それが、広島にいると実感してくる。

どうして広島は、世界初の原子爆弾を落とされなければ、ならなかったのか。

歴史の本を紐解くと、様々なことが書いてある。例えば、原子爆弾投下に至った理由。原爆投下を回避できたのか、否か。原爆投下による被害者の数ですら、諸説が入り混じる(広島市では当時暮らしていた約35万人中14万人が犠牲になったとしている)。

ただ、一つだけ確かなことは、当時の広島には戦争を遂行するための施設や軍人がたくさんいたわけではないということ。若い男性の多くは徴兵され、広島の街には子供かお年寄り、そして女性が多数住んでいた。そういう街に、原爆は事前の警告もなく、いきなり広島の普通の庶民たちの上に、落とされた。

実はアメリカの政府内や原爆投下のプロジェクトである「マンハッタン計画」のメンバーの中には「原爆投下の前に警告を日本に発するべき」とか「日本の大都市にいきなり原爆を落とす必要があるのか」という意見を持っている人は、少なからずいたという。1995年、アメリカのABCテレビは「Hiroshima: Why the Bomb was Dropped」という番組の中で「原爆投下という選択はしっかりとした根拠に基づいて決断されたものとはいえない」という結論を示している。

しかし事実は、多くの人々が知っているとおり。

1945年8月6日8時15分、広島の上空で「リトル・ボーイ」と名付けられた原子爆弾がいきなり、世界で初めて投下された。この時のことをサンフレッチェ広島久保允誉会長の父であり、エディオンの創始者でもある久保道正氏の著作「蓮の花は泥水しか咲かない」から引用したい。

ちなみに原爆投下の日、道正氏は27歳。本来であれば兵役を命じられているはずだが、中学時代に負った足の負傷のために、兵役は免除となっていた。そして1945年2月に結婚。実家は大手町にあったのだが、その日は様々な理由で舟入にあったもう一つの家で朝を迎えていた。


ピカッと光ったかと思うと、ドーンと大地を揺るがすようなものすごい音がしました。ふつうの爆弾や焼夷弾の音じゃありません。それは一瞬の閃光であり、一発の爆発音でしたが、この世の終わりが到来したように無気味で、総身の毛がよだちました。

あの瞬間のことはよく覚えていませんが、皆、反射的に家の外に飛び出したのだと思います。私も飛び跳ねて外へ出ようとしたのでしょうが、憶えているのは、猛烈な爆風で家がペシャンコに倒され、その下敷きになったことです。

全身が焼けるように痛く、まったく身動きができません。体の痛みは爆風で粉々に割れたガラスの破片が体じゅうに刺さったためですが、それは後からわかったことで、そのときはつぶれた家かに何とか脱出しようと無我夢中でした。


道正氏はその後、必死になって助けを呼びますが、なかなか家族に伝わらなかった。10分くらい叫び続けてようやく家族の知るところとなるが、今度は足が倒壊した梁にはさまり、身動きができなくなった。街を焼いている火がどんどん近づいてきて、このままでは焼死してしまう。

「脚をぶったぎって、助けてくれ」

火の粉が自分の体に降ってきた時に発せられた道正氏の叫び。だがその時、垂木が梁の間に入って隙間ができた。

「あと30秒遅かったら、私は焼死していた」(道正氏)

そしてもし彼がここで焼死していたとしたら、エディオン創業もなかっただろうし、サンフレッチェ広島も、どうなっていたか。

原爆の惨状は、調べればいくらでも出てくる。ぜひ見てほしいが、映像は相当にショッキングなものが多い。それだけは書いておきたい。

ここで記しておきたいのは、「75年間は草木も生えない」と言われた広島の街が、その75年目の2020年8月、人口119万9136人を記録するほどの大都市になっているということ。そしてその数字は今年7月、119万5085人にまで伸びた。街には高層ビルが建ち並び、新幹線が通り、2024年には素晴らしいコンセプトを持つサッカースタジアムも誕生する。しかも、爆心地である広島市中区大手町の島病院から歩いて13分、約1キロの距離に。

(残り 1042文字/全文: 2797文字)

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