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【編集者の日常】追悼・古葉竹識氏死去に寄せて。

本来、このサイトはサッカーを語ることをメインとしているわけだが、今日は一人の野球人について語ることをお許し願いたい。

元広島カープ監督の古葉竹識氏が11月12日、お亡くなりになっていたことが16日、わかった。

広島人にとっては、本当に大きな衝撃である。

1975年10月15日、後楽園球場。広島東洋カープは巨人を破り、初めてのリーグ優勝を果たした。この優勝がいかに快挙だったか。

1950年のチーム結成以来、Aクラス(上位半分より上。6球団制になって以降は3位以上)に入ったのは1968年だけで、1972年からは3年連続最下位。「セリーグのお荷物」と長らく呼ばれていたのも無理はない。

僕は1980年に広島へやってきたので、初優勝の時はまだ長崎県にいた。「巨人の星」という名作アニメの影響をモロに受け、多くの同世代と同じように僕も巨人ファン。少年期は巨人が9連覇を果たしていた時で、王貞治・長嶋茂雄のONはもちろんのこと、堀内恒夫や髙橋一三、柴田勲や高田繁といったジャイアンツ戦士たちこそヒーローで、カープは正直、眼中になかった。存在は知っていて、外木場義郎や安仁屋宗八といった名投手がいることもわかっていたが、ただそれだけ。巨人以外で興味があったのは、村山実・江夏豊・田淵幸一らがいた阪神しかなかった。それも「巨人の敵」という位置づけで。

だからこそ、1975年の「赤ヘル旋風」は、驚きを隠せなかった。前年、巨人の9連覇が中日によって阻止されたが、それはあくまで「巨人が負けた」のであり、同時に長嶋茂雄の引退、川上哲治監督の辞任の方が大きな出来事。だが、1975年のカープ大躍進は、その事実そのものが強烈なインパクトをもっていた。

このシーズンの当初、カープの指揮をとっていたのはジョー・ルーツ。それまで紺だったカープの帽子を赤色に変えるなどのアイディアマン。「赤ヘル」は当初、「小学校の運動会みたいだ」と揶揄されたが、チームが結果を出すにつれて逆にこのアイディアが評価されることになる。そういう意味ではルーツは、プロ野球界に「コーポレート・アイデンティティー(CI)」の考え方を導入した先駆けと言っていい。

またルーツは球団と掛け合い、他球団からのトレードで多くの選手を獲得。その中には日本ハムファイターズの中心選手だった大下剛史もいた。広島出身の大下は持ち前の闘志あふれるプレーと緻密な頭脳でチームを牽引し、結果としてこの年、彼は盗塁王に輝いている。また、阪急(現オリックス)から宮本幸信も加入。抑えの切り札として10勝10セーブをマークし、試合を締めくくる役割を十分に果たした。他にも、ゲイル・ホプキンスやリッチー・シェインブラムといったメジャーリーグ経験を持つ外国人選手も獲得し、大きな戦力となった。

ジョー・ルーツはゼネラル・マネジャーとしては間違いなく優秀。選手を見る目も確かで、例えば衣笠祥雄のファーストからサードへのコンバートも、ホプキンスの存在があったとはいえ、まさに慧眼だった。

だが、現場を司る指揮官としてはというと、そこはどうだったかわからない。先発3本柱を確立し、外木場義郎・佐伯和司・池谷公二郎を中3日で回すローテーションの導入は、当時の日本球界では画期的でもあった。だが、わずか15試合で彼は審判とのトラブルに端を発して辞任してしまうまでの戦績を見ると、6勝8敗1分と負け越し。この時点でカープが優勝するとは誰も思っていなかった。

シーズンの大半を指揮し、快挙を達成したのが古葉竹識である。前年、南海のコーチを辞して広島に復帰していた彼を監督に起用したのは、素晴らしい選択だった。現役時代に2度の盗塁王を獲得し、1963年には.339の好成績で長嶋茂雄と熾烈な首位打者争いを演じたという名選手ではあった。だが監督起用の大きな鍵となったのは1972〜73年の2年にわたる南海コーチの経験だろう。野村克也監督のもとでチームづくりの基本や勝負に対する考え方を学び、1973年には優勝も経験。この指導者としての経験を大きく評価されたのではないか。

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