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【SIGMACLUB1月号立ち読み版】ミヒャエル・スキッベ新監督、その個性と就任への過程

広島とドイツ サッカーの関係性

 

広島とドイツは、不思議な縁で結ばれている。

1914年、第一次世界大戦が勃発。当時、日英同盟を締結していた日本は、イギリスと対峙していたドイツに対して宣戦を布告し、ドイツ東洋艦隊の根拠地だった中国・青島を攻撃した。この時に捕虜となって日本に送られてきたドイツ兵士たち約4700人のうち、545人が広島の湾に浮かぶ小さな島・似島に建設された捕虜収容所に移された。1917年のことだ。

その捕虜たちの中には、後に日本にバームクーヘンを伝えたと言われるカール・ユーハイムや自身の食肉加工技術を広島の会社に指導したヘルマン・ウォルシュケ、そしてユーハイムら捕虜仲間たちと「似島イレブン」と呼ばれるサッカーチームを結成したフーゴー・クライバーがいた。彼は帰国後、サッカークラブをつくり、ギド・ブッフバルトを育てた名コーチだ。

1919年1月26日、その似島イレブンが広島高師(現広島大学教育学部)・広島県師(現広島大学学校教育学部)・広島高師附属中(現広島大学附属高校)・広島中(現広島国泰寺高)の合同チームと、広島高師のグラウンドで試合を行った。一説には、この試合が日本のチームにとって初の国際試合だと言われている。

2試合行われ、結果は0‐5、0‐6。完敗。この5年前、広島中は神戸に遠征し、神戸一中(現神戸高)などの強豪校に勝利。西日本のサッカー界を牽引する気概を持っていた学生たちは、あまりの実力差に愕然とした。例えば、キックの種類。当時の日本サッカーはコントロールの難しいトゥキックが主流だったが、似島イレブンはインサイドキック。基本をしっかりと体得した上で、ヒールキックなどのトリッキーなプレーを見せた。まさに大人と子供。勝てるはずもなかった。

「彼らからサッカーを学びたい」

広島高師の田中敬孝主将は、ボートで似島まで渡り、ドイツ人たちにサッカーの手ほどきを受けた。そして彼が学んだドイツ式のサッカーは広島に根付き、それまでスコットランドやイングランドの教師から受け継いだものとミックスされ、サッカー王国・広島の礎となった。1947年、被曝からわずか2年後の全国中学蹴球選手権(現全国高校サッカー選手権)で広島高師附属中が圧倒的な強さを発揮して全国を制覇したのは、この時代からの「サッカーの蓄積」が存在したからだ。実際、「高校サッカー60年史」には「(この時の)出場チーム中、両足で自由にキックしたのは広島だけ」と称賛されている。

考えてみれば、ドイツはずっと、様々な分野で日本の範であった。例えば、「カルテ」などの医学用語は、今も根強くドイツ語が使われている。サッカーにおいても、1964年メキシコ五輪で日本に銅メダルをもたらしたのは、デッドマール・クラマーというドイツ人だった。規律を重んじ、常に論理的であろうとするドイツ人の性質も、日本人には親和性が高かった。

世界のサッカーの歴史を見ても、ドイツは常に強豪だった。1954年のワールドカップで、「マジックマジャール」と呼ばれるハンガリーを3‐2で破って初優勝。1974年はヨハン・クライフ率いる「トータル・フットボール」のオランダに2‐1で逆転勝利を飾って二度目の優勝。いずれも世界を席巻する魅惑的なサッカーを表現するチームの世界一を阻止したこともあり、不当に実力を貶められる傾向もあったが、一方でフランツ・ベッケンバウアーやギュンター・ネッツァーなど創造性に満ちたタレントも輩出し、リベロというポジションを確立させるなど、戦術的にも新機軸を打ち出していた。

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