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【編集者の日常】新春のお慶びを申し上げます。そして、どうして自分は編集者になったのか。

2022年が明けた。謹んで、新春のお慶び申し上げます。

昨年末、ずっと続けている安田女子大の非常勤講師としての仕事で、「編集者の仕事」を講義。この時、いろいろなことを考えた。

編集者の仕事を続けていくのに大切なことって何だろう。

筆者は、記者という立場と同時に、編集者としての仕事も大切にしている。自分の仕事の本質はむしろ編集者で、記者の仕事はそこから派生したものだとも考えている。自分の仕事についてのルーツが、記者ではなく編集者だったことが大きいのだろう。

そしてその仕事が、いわゆる出版社での仕事でスタートしたわけではなく、広告会社で始まったことが自分のその後に大きく影響している。

筆者は広島大学で学んでいたが、当時は本当にグータラで、努力することなど全く考えていなかった。卒業後の進路もロクに考えていなかったし、大学の授業もほとんど出ていない。卒業できたことが奇跡みたいなものだが、それも5年半、かかった。様々な間違いもおかしたし、周りにいた友だちが支えてくれなかったら、まともな人生を歩けなかっただろう。

大学5年を終えた1985年3月、わずか2単位(1教科)足りず、卒業が伸びた。就職も決まっていたが、それも取り消し。当時アルバイトをしていた居酒屋での仕事を継続し、焼き鳥をずっと焼き続けていた。だが、夏を迎えた頃、「このままでいいんだろうか」と考えた。

それまで、「自分はこの夜の世界で生きていくんだ」と考えていた。だが、このあたりから「昼の仕事がしたい」と思うようになった。深夜3時まで仕事をして、そこから飲みに行って朝の7時くらいまで酔っ払っていた。ある日、足をふらつかせながら朝の流川通りを歩いていると、自分と同じくらいの世代たちが忙しそうに歩いている。その姿を見て、自分の現状を考えた。

居酒屋で焼き鳥を焼く仕事は、嫌いではなかった。むしろ、好きだった。だが、この仕事をずっと続けていくイメージが湧かなかっただけでなく、身体もかなり疲れていた。

「しんどいな……」

そんなことを考えていたある日、書店でリクルートが発行していた「就職情報」という本を見た。それはほぼ求人広告だけで構成されているという、リクルート独自のフォーマットでつくられた本だった。その中にあったリクルート自身のアルバイト求人広告を見て、「ここで働きたい」と考えるようになった。お世話になった居酒屋に辞めることを告げ、退路を断って入社試験を受けた。結果は合格。アルバイトという立場ではあるが、当時は急成長を続けていたリクルートという大会社で働けることになった。

ここで営業として働き始めたものの、根っからのグータラである筆者が成果をあげられるはずもない。そもそも、仕事をしていない。新規開発が主たる役割だったが、営業のための電話もせず、訪問もしない。ずっと喫茶店でさぼっていた。求人広告を売るという仕事が、相手の会社にとってどういうメリットを与えるのかがわからないなんて、いっぱしのことを言っていたが、本当はただ仕事をしたくなかっただけ。成績があがらなくても、もういいやって感じだった。

あの頃を今、振り返れば、自暴自棄な状態だった。何をやってもうまくいかない。そもそも焼き鳥を焼くのを辞めたのも、自分の能力に限界を感じたからだった。それなりには焼けているが、それ以上はない。料理人の修業を始めるには年齢をとりすぎていたし、自分には修業に耐えられないとも感じていた。だから、逃げた。

営業も同様。「頑張ろう」と決意はしていたが、ちょっとうまくいかないとすぐに嫌になった。電話でアポイントメントをとるのも、何度も無碍に断られると、気持ちは萎えた。新規訪問にしても、ドアをノックするのが怖かった。話を聞いてもらっても、全く興味を持ってもらえない。たまに広告が売れても、効果が出なくて、お客様から叱られた。

もう、クビになってもいいや。

そんな感覚で、年末を迎えた。

支社長に呼ばれた。

「来年から……」

あー、クビか。仕方がない。ずっと広告を売ってこなかったからな。

「制作課で仕事をしてもらおうと思っている。内勤になるから、時給は下がるがな。どうだ、やる気はあるか」

「は、はい。頑張ります」

思わぬ言葉に正直、驚いた。でも、助かったとも思った。無職にならずにすんだ、と。

翌年、制作課に異動。担当は教育機関広報で、略称はKKK。アメリカにある秘密結社と同じ呼称のように見えるが、こちらは「スリー・ケー」と呼ばれた。大学や専門学校の学生募集広告を請け負う部署で、その広告をつくることが主たる仕事となった。

僕の担当は制作進行。クリエイティブではなく、広告の制作工程を管理し、情報誌にしていくための印刷原版をつくっていく仕事である。

この仕事にとって重要なのは、正確な事務作業とコミュニケーションだ。

どれだけのクライアントが情報誌の参画を決めていて、その広告の制作はどの工程にあるかを把握する。広告企画について営業とディレクターの打合せは行われているか、コピーライターやデザイナーへの依頼は行われているか。原稿とデザインはいつできて、クライアントにいつ提案できるか。クライアントからいつ戻り、いつ文字入稿ができるか。撮影の日取りやゲラの校正などの日程確認を行い、製版入稿はいつで、色校正はいつあがって、責了・校了はいつできるか。

これらの要素を正確に把握し、絶対にずらすことができない情報誌全体の〆切にしっかりと間に合わせる。そのために、営業・ディレクターとの密なコミュニケーションをとり、時にはクライアントに出向いて校正の指示を受けたり、トップ表記などの掲載に審査が必要な表現に対する説明を行ったりした。

もちろん、ある程度のレクチャーは受けたが、印刷業界の専門用語すらわからない、ゲラの意味すら知らない筆者にとっては、「わからないことが、わからない」状態。毎日毎日、ミスをした。毎日毎日、怒られた。そもそも、営業で失格の烙印を押されて異動してきたことは、課の先輩方も知っている。「ゴミ」と呼ばれていたことも知っていたし、「クズ」とも「何をやらせてもできない」とも言われていた。いろんなことを教えられてもその量が半端ないし、一方で仕事は次々に舞い込んでくる。とてもではないが、9時-17時ではおさまらない。働きながら学ぶことしか、できない。

必然的に、残業は増えた。誰も「残業しろ」なんて言わない。課長やリーダーは「早く帰れ」が口癖。でも、残業しないと、とてもではないがこなせない。また、当時のリクルートは、残業時間に対しては全て時間外手当が支給されていたこともあり、残業そのものは悪くなかった。ただ、それも程度問題。疲れからさらにミスも頻繁に起きてしまい、ついには退職勧告もされてしまった。

思えばこの時、自分で学ぶ姿勢を見せるべきだった。いや「姿勢」ではなく、実際に自分で学ぶべきだった。そして、考えるべきだった。どうやったら、仕事がうまく回っていくのか。どうすれば、ミスが減っていくのか。そのノウハウを自分自身でつかみとっていくこと以外には、方法はなかった。誰かの真似から始めてもいいし、本や雑誌からヒントをもらってもいい。言われたことをただやるだけでは成長できないことに、当時の筆者は気づていなかった。

リーダーから退職勧告をされた時、筆者は「もう一度、頑張らせてください」と懇願した。それまで筆者に対して一切、優しさを見せてくれなかったリーダーだったが、ここで初めて、励ましてくれた。

「わかった。課長には俺から話しておく。頑張れ」

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