「スタンド・バイ・グリーン」海江田哲朗

【無料記事】【フットボール・ブレス・ユー】第13回 なんのこれしき(2016/10/20)

第13回 なんのこれしき

自分の半生を振り返り、最大のピンチはいつだったか考えた。ぱっと浮かんだのは、十数年前、AFCユース選手権の取材でマレーシアのジョホールバルを訪ねたときだ。

タクシーを利用し、観光客相手から料金をちょろまかしてやろうとする運転手は、メーターを倒さなかった。当然、降りるときに揉め、だったらと乗る前の料金交渉に努めたのだが、それでも揉めた。たいした額ではないが、相手の言いなりになるのは業腹だった。

そうして僕は、滞在中に特定の運転手とゆるやかな専属契約を結べないかと画策する。電話をしたら来てくれ、客を乗せているときは信用できる別の運転手を回してもらう。その分、運賃は少し上乗せしてもいい。お金よりも手間と気分の問題だった。

マレーシア滞在3日目だった。律儀にメーターを倒し、陽気に話す運転手と出会った。しかもサッカー好きときたもんだ。この人にしようと決めた。交渉が成立し、僕らは握手を交わした。名を、アズマンという。小太りのおっさんだった。

アズマンの仕事ぶりはまじめだった。「明日は、9時によろしくね」と言っておけば、定刻の少し前にホテルに現れた。あるときは助手席に彼女を乗せ、「仕事の前に、ランチでもどうだい?」と誘いをかけてくるヘンなヤツだったが、それも面白く感じられた。

「今度、カラオケに行こうよ」とアズマンが言う。僕のなかには親愛の情らしきものが芽生えつつあり、マレーシアのカラオケがどんなものか興味もあった。明日の夜に行こうと約束した。

歓楽街の一角、入り組んだ路地の先にある雑居ビル。その地下にカラオケ屋はあった。部屋に通されると、若い女性がふたり入ってきた。僕の横についたのは、薄暗いところでならどうにか正視できる、欧陽菲菲似の女性(以下、オーヤン)。クラブみたいな感じなんだとドキドキした。

オーヤンが何か歌ってよと言い、勝手に日本語の曲を入れた。長渕剛の『とんぼ』。次に、反町隆史の『POISON~言いたい事も言えないこんな世の中は~』。どちらもふだんは手を出さない曲だが、歌うしかなかった。

2時間ほどして、お会計となった。伝票の額は、日本円にして10万円を超えていた。さっきまで仲よくしていたオーヤンは氷のような目つきでグラスを片付け始め、アズマンはずっと下を向いている。僕の財布には2万円程度しか入っていない。この際、素寒貧にされるのは避けられそうもなかった。そして、伝票を持ってきたヒゲ男との間で、「(クレジット)カードを出せ」、「(持ってるけど)持ってない」の押し問答が始まった。

15分ほどして、ヒゲ男は奥に引っ込み、入れ替わりに派手な黄色のドレスを着た女主人が入ってきた。驚かされたのは、その体格だ。180センチは優にあった。ヒールを履いているとしても、小柄な女性の多いマレーシアでこのサイズは破格である。大女は、ふたりのいかついタンクトップの男を背後に従えていた。

なんと、ボスキャラ登場。あのド迫力と絶望感は筆舌に尽くしがたい。

ああ、死ぬんだなと思った。日本が初めてワールドカップ出場を決めた地で、自分は死ぬのだ。オーヤンとちょっといちゃいちゃしただけなのに、なますのように刻まれ、海に捨てられて魚のエサか。最後に歌ったのが『POISON』。これだけはどうしてもいやだ。最後の晩餐があるなら、最後の一曲があってもいいだろう。だったらなんだ。ジュリーの『時の過ぎゆくままに』か。いや、THE BOOMの『星のラブレター』も捨てがたい。それとも堺正章の『さらば恋人』、風の『22才の別れ』。おっとうっかり忘れていた、THE BLUE HEARTSの名曲群。

冷静に考えれば、10万やそこらで命のやり取りになることはないのだろうが、異国の尺度はわからない。そこで、僕がやけくそで言い放った「エンジョイ・トゥナイト!」。なぜ、そう口走ったのか。勢いまかせも甚だしい見当違いなことを言ったのは、後にも先にもあれっきりである。

ゆっくり歩み寄ってきた大女は僕を一瞥し、アズマンの前に立った。アズマンはしぶしぶといった様子で、ポケットからしわくちゃの紙幣を何枚か出しテーブルに置いた。雑魚を連れて来やがってと、落とし前をつけさせられたようである。

帰りの車中、僕らは無言だった。翌日からアズマンとは連絡がつかなくなった。

人知れず、マレーシアの海に葬られることを思えば、なんのこれしき。

以上、長くなったが、こないだ山形から帰りの新幹線のなかでつらつら考えたことである。

J2第36節が終了し、東京ヴェルディは18位に順位を下げた。21位のギラヴァンツ北九州、22位のツエーゲン金沢とはともに勝点5差。残留争いのぬかるみにズブズブとはまりつつある。

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