【無料記事】【トピックス】特集『ルーツ探訪 藤田譲瑠チマの故郷 ~町田大蔵FC~ 』前編(20.11.27)
■素直さがいまの彼をつくった
市川が大蔵FCの32期生のチームを受け持つようになったのは、小学2年からである。当時から藤田のボールコントロールの巧さは抜群に目立っていた。
聞けば、3歳のクリスマスプレゼントに父からサッカーボールを授けられ、4歳でワンバウンドリフティングを完璧にこなしていたという。
「お母さんはとても控えめな方なんですが、『私、天才を産んじゃったかも』と冗談めかして話されていました。サッカーが好きな分、試合で負けたらしょっちゅう泣いていて。自分もトレーニングで勝負し、泣かすことの繰り返しです」
そのあたりはヴェルディS.S.相模原の流儀か。詳しくは後述するが、市川は土持功の門下生のひとりである。「土持さんから教わったことをそのまま伝えただけ」とは教え子の弁だ。
藤田はぺしゃんこにされても向かってくる性根のたくましさがあり、また対人コミュニケーションも旺盛で、特有の人懐こさがあった。
「人間、大好きですよ。いろんな人と話をして、相手の言葉に耳を傾け、理解力も高かった。僕がこうしたらいいんじゃないかとアドバイスすれば、すぐに吸収してそれ以上のことをやってみせる。あの素直さですよね。それがいまの彼をつくったんだと思います」
藤田が成長曲線を描いていくに伴い、市川が頭のなかで温めるプランは現実味を帯びていった。これぞという逸材を、東京ヴェルディに送り出す計画である。
「関東にはJクラブが多くありますが、選手を育成する実績はヴェルディが一番。プロ選手の数が格段に多いですから。選手が夢を叶える近道であり、指導者としても信頼できるのはあそこしかない、と」
市川にとっては、ヴェルディS.S.相模原出身の河野広貴、南秀仁(モンテディオ山形)といった先達がいたのも大きい。育成年代において求められる水準の高さは把握しており、藤田がさらに豊かな伸びしろを秘めているのは明らかだった。
「ジョエルだったら、あの厳しい環境のなかで揉まれてもやっていける。おそらく肌に合うのではないか、というのが僕の考えでした」
その見立てが間違っていなかったのは、やがて藤田が証明することになる。
※後編は12月9日に掲載の予定です。