「スタンド・バイ・グリーン」海江田哲朗

【トピックス】特集『ルーツ探訪 藤田譲瑠チマの故郷 ~町田大蔵FC~ 』後編(20.12.9)

自身の育った町田大蔵FCで、長年指導してきた市川雄太コーチ。

自身の育った町田大蔵FCで、長年指導してきた市川雄太コーチ。

特集『ルーツ探訪 藤田譲瑠チマの故郷 ~町田大蔵FC~』後編

※前編はこちら

■街クラブにも原石はいる

町田大蔵FC(以下、大蔵FC)のコーチを務める市川雄太もまた、Jリーガーを夢見たひとりだった。1993年、Jリーグが華々しくスタートしたとき、市川は小学3年生。サッカー小僧の眼中に、それ以外が入り込む余地はない。

部活でボールを蹴っていた中1の終わり頃、転機が訪れる。土持功(ヴェルディS.S.相模原代表)と出会い、この人の指導を受ければ巧くなれそうだと直感が告げた。

そうして市川はヴェルディS.S.相模原(以下、ヴェルディ相模原)の一員に加わり、やがて立ち上げられたユースの第1期生となる。ポジションはセンターバック。高2からキャプテンを務めた。

2002年初夏、日本クラブユース選手権 (U-18)の関東予選で、「本部」と呼び習わされる東京ヴェルディユースと対戦。このゲーム、市川はプロテストのつもりで臨んでいる。

「同い年の田村直也にチンチンにされましたよ。めちゃくちゃ強かった」

結果は1‐5の大敗だ。東京Vユースの監督は都並敏史。ゴールを守る菅野孝憲をはじめ、一柳夢吾、塗師亮、小野雄平、保谷吉昭など、のちにプロ入りするメンバーが多数いた。

その後、市川はこれがラストチャンスと決めて、サガン鳥栖のテストを受けた。ベテランと新人が横一線に並ぶトライアウトである。奇遇にも、憧れの選手だった菊池利三と3バックを組んだ。前線には藤吉信次がいた。結果は不合格。

「あの藤吉さんに、いまはジョエル(藤田譲瑠チマ)がお世話になっているんですから不思議な縁を感じます。僕は、土持さんに夢を見させてもらえました。たいして巧い選手ではなかったのに、もしかしたら手が届くかもと思わせてもらった。そこを本気で目指すから何かを得られ、人間的な成長にもつながる。小さな街クラブにも原石はいて、プロになりたいという思いを持っている子が必ずいるんです。僕の指導者としての基本的な考え方は土持さんと一緒で、巧い子は勝手に巧くなる、そうではない子たちをどう導けるかが自分の仕事なのかなと」

市川は若かりし日を回顧し、そう言った。

(残り 3012文字/全文: 4003文字)

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